紫龍と星矢が、思い詰めた目をしたナターシャに相談事を持ちかけられたのは、それから3日後の夕刻のことだった。
その日は瞬が夜勤で、ナターシャは紫龍の家に預けられることになっており、ナターシャが来るというので、星矢もナターシャと遊んでやるために(遊んでもらうために)紫龍宅にやってきていた。
月に2度は そういうことがあるので、ナターシャが緊張気味なのは“よその おうちでの お泊り”のせいではない。

いつも通り、紫龍ではなく春麗に手土産を渡し、
「ナターシャちゃん、いい子でいてね」
と言い残して 瞬が職場に向かうまでは、ナターシャの様子も いつも通りだった。
瞬がいなくなったところで、覗き見根性丸出しの星矢に、
「氷河と瞬に、最近 変わったことはあったか?」
と尋ねられた途端、ナターシャは にわかに 眉を曇らせ、顔を強張らせたのだ。

ちなみに、星矢がナターシャに “変わったこと”の有無を尋ねるのは、ナターシャの前で“かっこいいパパ”でいるために、自分のミスを超理論で言い繕う氷河の振舞いを監視し、場合によってはナターシャの認識を正すため。
そして、ナターシャが ナターシャの視点と感性で語る氷河の親バカ話を聞くのが楽しくてならないからだった。

パパに美味しいコーヒーを飲ませてあげたいという厚意から、氷河のコーヒーに砂糖を山ほど入れるナターシャを止められない氷河。
砂糖と塩を間違えられても、文句も言わず塩入りコーヒーを飲む氷河。
氷河の過激な“高い高い”を目撃した善意の市民から 幼児虐待の疑いの通報を受けて、事実確認のために家庭訪問に来た児童相談所の職員たち。
それを、『パパがかっこいいから、よその おばちゃんたちが おうちまで追いかけてきた』と信じるナターシャ。
ナターシャの語る氷河と瞬の生活は、実に波乱万丈だった。

そんなふうだったので、思い詰めた目をしたナターシャに、
「パパが泣いてたの」
と訴えられた時も、星矢は(紫龍も)、最初は 言葉通りに受け取らなかったのである。
少なくとも、氷河が悲しいことがあって泣いていたのだとは思わなかった。
氷河が泣いていたのが事実だったとしても、その原因は せいぜい、タマネギを刻んだせい、足の小指をドアの角にぶつけたせい、またコーヒーに塩を入れられたせい――程度のものだろうとしか 考えなかったのである。
もちろん、ナターシャにも そう言った。

「タマネギを使う料理を作ったんだろう」
「足の指をドアやタンスの角にぶつけると、大人でも泣くほど痛いぞ」
「ナターシャは知らないだろうが、コーヒーってのは、時々 泣きたいくらい塩辛くなることがあるんだ」
等々。
だが、ナターシャは、氷河が泣いていたのは タマネギのせいでも 足の小指のせいでも コーヒーのせいでもないと断言した。

昨日、昼寝から目覚めた時、ナターシャは その現場を目撃したのだそうだった。
氷河は、料理中でも、場所の移動中でも、コーヒーブレイク中でもなかった。
ナターシャの部屋で椅子に座り、何も飲まずに、顔を俯かせ 肩を震わせて、氷河は泣いていた――らしい。
世界一カッコよくて、マーマの次に強いパパが泣いていることに驚き、ナターシャは、自分が目覚めたことを氷河に知らせることができなかった。
ベッドの中で しばらく悩んだ末、もう一度 目を閉じて、ナターシャは眠っている振りをした。
幸い、氷河は まもなくナターシャの部屋を出ていったので、眠った振りは10分ほどで終わらせることができたのだが、ナターシャはショックのあまり、氷河が泣いていたことを瞬にも言えなかったらしい。
恐くて、氷河に、なぜ泣いていたのかと尋ねることもできず、ナターシャは 自分が目撃した場面を その小さな胸の中にしまっておいたのだ。

「どうしよう……。パパが一人で泣いてたの……」
星矢と紫龍に そう訴えるナターシャの瞳は、心配というより不安の色を たたえている。
“マーマの次に強い”ということは、ナターシャにとって、“世界で2番目に強い”ということ。
そのパパが泣いていたという事実は、ナターシャには 世界の破滅の予兆にも思える一大事にして重大事であるらしかった。

「あー……それは、きっと あれだ。きっと、何か悪さをして、瞬に叱られたんだ」
という星矢の推察は、
「パパはナターシャと一緒に、イイコにしてるよ!」
ナターシャによって、言下に却下された。
「ほんとか?」
星矢が そう尋ねたのは、『氷河は 本当にイイコにしているのか?』という意味で、決して『氷河は 本当は やっぱり 瞬に叱られて泣いていたんじゃないのか?』という意味ではなかった。
が、ナターシャは 星矢の確認を そう解したらしい。
『パパはイイコにしている』と言ったばかりだった手前もあるのか、かなり言いにくそうに、ナターシャは、その点に関しては既に確認済みだと、星矢たちに打ち明けてきた。

「アノネ。もしかしたらパパはマーマに叱られたのかもシレナイって思って、ナターシャ、マーマに訊いたんダヨ。『パパは マーマに叱られるようなことシタ?』って。デモ、マーマは、パパを叱ってないって……」
「一応、瞬には確認したんだ」
「ウン……」
“愛すること”と“信じること”は、必ずしも等号で結ばれるものではない。
パパを誰よりも愛しているナターシャは、だが、完全に氷河を信じているわけではないようだった。
瞬に育てられているだけあって、ナターシャは極めて賢明。
感心している場合ではないのだろうが、星矢と紫龍は ナターシャの賢さに感心せずにはいられなかったのである。

それにしても、あの氷河が泣いていたとは。
それが事実なのであれば、ただごとではない。
より正確に言えば、幸せいっぱい夢いっぱいの今の氷河が泣いていたというのは、それが事実なのなら ただごとではない。
今の氷河には、悪さをして瞬に叱られることさえ、幸せなことでしかないだろう。
氷河が泣く原因に、星矢は全く心当たりがなかった。

「氷河が泣いてたって、やっぱ、だらだら 派手に涙を流して泣いてたのか?」
「だらだら? だらだらしてたかどうかは わかんない。パパは ご本を読んで泣いてたんだよ。ナターシャ、恐くて すぐに目をつぶっちゃったから、よく見えなかったけど……」
「ご本って、何の本だよ」
「ナターシャの絵本ダヨ。『しろくまちゃんのホットケーキ』」
「はあ?」

それが どんな内容の絵本なのかを、星矢は知らなかった。
知らなかったのだが、タイトルだけでも、おおよその見当はつく。
それは、しろくまちゃんがホットケーキを食べる話に決まっていた。
「泣きたいほどホットケーキが食いたかったのかな……?」
「さすがに、それは……。おまえじゃないんだから」
「ホットケーキを食いたくても食えなかった つらい思い出があるとか」
「だから、氷河は、おまえと違って、食い物への執着は あまり……」
「なら、マーマにホットケーキを作ってもらった思い出が蘇ったパターンか」
「それは、あり得るな」

だが、それで いい歳をした大人が泣くだろうか。
『ごんぎつね』でも『泣いた赤鬼』でも泣かなかった男が。
たとえマーマとの思い出が蘇ったのだとしても、『しろくまちゃんのホットケーキ』で。
もし氷河が本当に『しろくまちゃんのホットケーキ』で泣いていたのだとしたら、これほど謎めいて興味深い事態はない。
ナターシャの不安を消し去るためにも、この謎は 何としても究明しなければならない。
うまくすれば、向こう10年間は氷河をからかい続けることのできるネタをゲットできる――。

そう考えて。
星矢は、不安顔のナターシャに、氷河の涙の訳を究明することを、張り切って約束したのだった。






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