氷河が泣いていた訳を突きとめるために、星矢が最初にしたことは、翌日 ナターシャを迎えに紫龍宅に来た瞬に探りを入れることだった。 なにより まず、『しろくまちゃんのホットケーキ』が水瓶座の黄金聖闘士を泣かせるような内容の絵本なのかどうかを確認しなければならない。 それが、猟師に殺されたマーマのホットケーキの味を懐かしむ しろくまちゃんの物語だったなら、さすがに 氷河の涙をネタにして遊ぶわけにはいかないだろう。 その場合には、ナターシャにも、究明した事実を事実のまま 報告することはしない方がいい。 そう考えるだけの分別は、星矢にもあったのだ。 が、星矢の懸念は杞憂だった。 星矢に『しろくまちゃんのホットケーキ』のあらすじを尋ねられた瞬の返事は、 「しろくまちゃんがホットケーキを作って、こぐまちゃんと食べる お話だけど、それがどうかしたの?」 だったのだ。 もちろん、人の感性は 人それぞれ。 何が 人の心の琴線に触れ、人の涙腺を刺激するのかは、人によって異なるものである。 そのことを考慮しても、『ごんぎつね』で泣かない男が、しろくまちゃんの作ったホットケーキで泣くことは、さすがに考えにくいことだった。 だが、だとしたら 一層、氷河の涙の訳が わからなくなる。 星矢は、首をかしげる代わりに眉をしかめた。 「ナターシャが心配してたんだ。氷河が その絵本を見て泣いていたと」 「え? ああ、それは――」 言いかけて、瞬が言葉を濁す。 瞬は、氷河が絵本を読んで泣いている事実を承知しているらしい。 その理由も わかっているらしい。 そして、その理由は、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間にも言いにくいことであるらしい。 氷河が泣いていた理由が、“言いにくいこと”で、“言ってはならないこと(と、瞬が考えていること)”でないのなら、その理由を瞬に白状させるのは、星矢には容易な仕事だった。 なにしろ 星矢は、伊達に 瞬と 命をかけた戦いを共に戦い続けてきたわけではないのだ。 「やっぱ、あれか? 氷河の奴、ナターシャには知らせられないような ろくでもないことをして、おまえに こっぴどく叱られたのか? それで おまえに半殺しの目に会わされて、自分の非力を むせび泣いてたとか?」 「違います!」 瞬が即座に否定に及ぶのは、事実と異なる その推測を、星矢がナターシャに事実として伝えることを阻止するため。 ナターシャのパパの名誉を守るため。 ナターシャがパパに失望する事態を招かないため。 そして、ナターシャのマーマが暴力で物事を解決するような人間だという認識を ナターシャに抱かせないため。 何より、ナターシャを 暴力で問題解決を図ることを是とする人間にしないためだったろう。 「んじゃ、なんで、氷河は泣いてたんだ?」 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に乗せられてしまったことは、瞬にも わかっていただろうが、こうなると 瞬も事実を星矢たちに知らせないわけにはいかなくなる。 「もう……」 いかにも しぶしぶといった体で、瞬は星矢たちに、氷河が絵本を読んで泣いていた理由を語り始めたのだった。 「それは……最近、ナターシャちゃんが 字を書きたがるようになってきたんだ。アルファベットより形が面白いらしくて、ひらがなが お気に入り」 「アルファベットは記号だが、ひらがなは、ある意味、絵だからな」 育児の先輩である紫龍の指摘に、瞬が頷く。 ナターシャは お絵かきが大好きなのだ。 「字が読めるようになったら、書き始めるまでは あっという間だったよ。今は、描いた絵にコメントをつけるのが好きで、お花の絵には『じょうず』、洋服の絵に『すごく にあう』、ご飯の絵に『えいようばらんす』、氷河の絵には『ぱぱ、だいすき』」 「……」 『えいようばらんす』で吹き出しかけていた星矢の口許が 軽く引きつったのは、ご飯の絵までに付したコメントと氷河の絵に付したコメントとの趣の違いのせいだったろう。 『じょうず』『すごく にあう』『えいようばらんす』は 氷河や瞬の評価や口癖だろうが、『ぱぱ、だいすき』は ナターシャ自身の言葉。 そして、 「何だよ! その、内閣府の少子化対策PR動画に採用したいような展開は!」 だったのだ。 大人として、これほど感想のつけにくいコメントもない。 「ナターシャちゃんは、その絵を自分の部屋のテーブルの上に飾ってるんだ。氷河は、用心のために絵本で顔を隠して、こっそり それを見ては 感涙してるの」 「は……そういうことだったのかー……」 謎は すべて解けた。 おかげで、星矢は、この世には解かないでおいた方がいい謎もあるということを知った。 その上、知ってしまったことは、自分の意思で忘れることはできないという事実も。 地上の平和を守るために、強大な力を持つ敵と 命をかけて戦うアテナの聖闘士。 時には、神と戦うことすら あるアテナの聖闘士。 それも聖闘士たちの最高位にある黄金聖闘士が、こんな “お約束通り”としか言いようのない展開に泣かされているとは。 王道、常道、テンプレ展開の力、恐るべし。 星矢は、心の底から、世界の平和の維持存続に 危機感を覚えてしまったのである。 「なんか、それってさあ、親バカっていうより、ただの馬鹿なんじゃないか」 「そんなことは……」 『ない』と即答できない瞬を見て、星矢は 本格的に心配になってきてしまった。 仲間たちと連絡を絶っていた数年間、当然 氷河は(氷河でも)その年月分 大人になったものと、星矢は思っていたのだが、それは とんでもない買いかぶり、ただの幻想に過ぎなかったのではないか。 人の子の親になり、定職にも就いた。 氷河にしては奇跡的快挙、驚異的成長振りと感動すらしていたのに、それは 中身を伴っていない形骸的な変化――単に上着を一枚 着替えただけのことだったのではないか――と。 「氷河は、根本が まるで変わっていないっていうか――。海の底のマーマのとこに行って、上に向かって涙を流したり、敵が すぐそこにいるってのに無視しまくって、天蠍宮で だらだら滝涙を流してた時と何も変わってないじゃん」 星矢の指摘は、至極尤も。正鵠を射ている。 氷河の成長のなさを、星矢が 容赦なく弾劾できるのは、彼が氷河の成長のなさに 責任を感じなくていい立場にあるからだったろう。 星矢は、この数年間、氷河と没交渉だった。 もし 氷河当人以外に、氷河の成長のなさに責任を負う者がいるとすれば、それは星矢以外の友人たち―― 一輝は除外するとして、瞬と紫龍の二人――なのだ。 紫龍が氷河の弁護にまわったのは、彼の立場上、ごく自然な流れだったかもしれない。 「いや、だが、氷河がナターシャの前で泣かないのは、ナターシャを恐がらせないため、幻滅させないためだろう。氷河も 少しは大人になっているんだ。親の涙が 子供を不安にすることが わかっているから、氷河はナターシャに隠れて泣いているんだろう。分別もついている。……と言えないこともない」 「そういう見方もあるかもしれないけどさあ……」 「氷河は、喜怒哀楽の激しさを隠すために仏頂面をしてるような男だ。奴が努力していることだけは認めてやれ」 なぜ 俺が こんなに一生懸命 氷河を弁護してやらなければならないのだと、氷河を弁護しながら、紫龍は得心できずにいるようだった。 それが わかるから――星矢は、とりあえず、氷河の成長のなさについて、それ以上 言い募ることをやめたのである。 水瓶座の黄金聖闘士の成長のなさに、誰よりも大きな責任を負う人物は 水瓶座の黄金聖闘士 その人だろうと思うところもあったから。 「瞬。氷河には、ナターシャに見付からないところで泣けって忠告しとけよ? 泣く時は、ナターシャのいない部屋で、しっかり鍵を掛けてからにしろって」 「ん……。でも、僕、氷河が泣いてることに気付いていない振りをしてあげてるから……」 「はあ !? 気付いてない振りをしてやってる !? 瞬、おまえはなんで――」 『そんなふうに氷河を甘やかしてばかりいるんだよ!』と責められる前に、瞬は慌てて、星矢に大きく頷いた。 「うん! 氷河には、なるべく ナターシャちゃんには笑顔を見せるように、それとなく言っておくよ。ナターシャちゃんにもフォローしておく。知らせてくれて、ありがとう!」 瞬が慌てて 星矢の言を遮ったのは、お帰りの準備ができたナターシャが やってくる気配がしたからだったらしい。 「オオカミ少年には なるなよ。これはナターシャのためでもあるんだから」 駄目押しの 念押しをして、星矢も その場は それで収めたのである。 氷河は ともかく、瞬の親としての権威は、ナターシャの前では保っておいた方がいいだろうと考えて。 瞬は、人は嬉しい時にも泣くことがあるのだと、ナターシャに教えたようだった。 次に 星矢と紫龍がナターシャに会った時、ナターシャはもう、氷河が泣いていたことを案じてはいなかった。 「パパは、ナターシャが可愛すぎて、嬉しくて泣いてたんだって。マーマが言ってた」 「ああ、人は、嬉しい時にも泣くもんだからな」 「ナターシャ、あんまり可愛くなっちゃいけないのカナ……? ナターシャ、マーマが目標ナノニ」 ナターシャは、パパを泣かせたくなくて、自分の可愛らしさに関して、至極 真面目に悩んでいるらしい。 今 この世界は平和なのか、それとも存亡の危機にあるのか。 その判断は アテナの聖闘士である星矢と紫龍にも極めて難しい作業で、彼等は すぐに結論に至ることはできなかったが、ともあれ “パパが泣いていた”事件は、これで一件落着。 あとは、氷河が ナターシャの前で うまく笑えるようになれば、さほどの時を置かずに、“パパが泣いていた”事件のことは、ナターシャの記憶の中から消えていくだろうと、彼等は思ったのである。 |