氷河は、リビングルームの北側の壁際に置かれたオーディオ収納ボードの前で、なぜかメジャーを手にして うろうろしていた。
氷河は いったい何をしているのかと訝りながら、瞬はまず ナターシャの姿を探した。
氷河のコスプレ計画の存在は、ナターシャには知られない方がいいだろう。
ナターシャの前で 氷河の暴挙を咎めることは、氷河の父親の威厳を損なうことに つながるかもしれない。
氷河に“父親の威厳”などというものがあるのかと問われると、瞬も答えに窮するのだが、少なくともナターシャが氷河を世界一 カッコいいパパだと信じているのは、紛う方なき事実。
ナターシャを失望させるようなことをするのは、瞬も極力避けたかったのである。

幸い、ナターシャはリビングルームにはいなかった。
ベランダで、数日前から花を開き始めたウィンターコスモスを鑑賞中。
それを確かめてから、用心のためにナターシャに聞こえないよう 音量を抑えて、瞬は氷河に尋ねたのである。
「氷河。氷河の部屋のチェストの上にあった、あれは何?」
「ん?」
オーディオ用のボードを買い替えようとしているのか、あるいは どこかに移動しようとしているのか、ボードの幅を測っていた手を止めて、氷河は瞬の方に視線を巡らせてきた。

“あれ”が何なのかはわかっているので、氷河の答えを待たずに話を進める。
「サンタクロースは、子供が眠っているうちにプレゼントを置いていくんだから、わざわざ コスプレまでする必要はないでしょう」
ナターシャのために何かしたい――むしろ、何でもしたい――氷河の気持ちは わかるのだが、どうせ“何かをする”のなら、意味のあることをしてほしい。
氷河がサンタクロースのコスプレをすることは、無意味な“何か”である。
瞬にとっては そうだった。

そんな瞬の考えが わかっているのか いないのか、氷河が、
「ああ」
と、どう解すればいいのか わからない答えを返してくる。
氷河は、まともに瞬の話を聞いていないようだった。
もとい、話を聞いてはいるのだろう。
その話を、瞬が期待したように理解してくれなかっただけで。
氷河は、それをクリスマスの相談と解した――のだ。

「ナターシャへのクリスマスプレゼントは 何がいいだろうな。サンタクロースはいるんだと、子供に何歳まで信じさせておけるかが、親の腕の見せどころらしいぞ。世の親たちは、我が子の夢を守るために、粉骨砕身するらしい」
「……」
いったい氷河は、どこから そんな情報を仕入れてきたのか。
蘭子や 氷河の店の常連客たちの顔を幾つか思い浮かべ、だが、瞬は、氷河にサンタクロースのコスプレ計画を思いつかせた元凶を突きとめる作業を、すぐに中断した。
氷河に そんな情報を提供した人間が誰なのかが判明したところで、問題解決にはならない――そんなことをしても、氷河の暴走を止めることはできないのだ。

「イブまでに、リビングに暖炉を設置しようと思うんだ。煙突がないと、サンタクロースの来訪に説得力がないだろう?」
「暖炉? 氷河、本気で言ってるの?」
責める口調で 氷河を問い質しながら、瞬は、『我ながら、何という愚問を発しているのか』と、自分自身に呆れていたのである。
氷河が本気でないはずがない。
氷河がいつも本気だということを、瞬は誰よりもよく知っていた。

「今は、インテリア性重視の電気式暖炉もあるらしい。本物の煙突でなくていいんだ。サンタクロースが通れるだけの幅があるように見えさえすれば」
どうやら 氷河は、リビングルームに暖炉を設置するスペースを確保するために、メジャーを持ち出してきていたらしい。
氷河の手からメジャーを取り上げて、瞬は、
「冗談はやめて」
と、真顔で言った。

混沌の中から“世界”を作ったギリシャの神々。
その神々の1柱であるアテナに従って戦うアテナの聖闘士が、なぜ たかだか2000年の歴史しか持っていない新興宗教の教祖(要するに、ただの人間)の誕生を祝うイベントのために、そんなことまでしなければならないのか。
ナターシャにプレゼントを贈り、ナターシャとケーキを食べるための口実としてのクリスマスイベントを否定するつもりはなかったが、それでも、アテナの聖闘士には アテナの聖闘士としての立場というものがある。
アテナの聖闘士としての己れの立場に関して 全く自覚がないらしい氷河に、瞬は軽い目眩いを覚えてしまったのである。

「煙突なんて 必要ありません! サンタクロースが来たことに説得性を持たせたいのなら、サンタクロースは光速移動ができることにすればいいでしょう!」
「なるほど。その手があったか。さすがは聖域始まって以来の俊傑。冴えているな」
瞬は、冴えたくて冴えているわけではなかった。
そして、まるで褒められている気がしない。
「氷河!」
『僕は、氷河のコスプレ計画に協力するつもりはありません!』と、瞬が怒鳴ることができなかったのは、もちろん その場に彼等の娘が登場したからだった。
そうと意識しているのではないだろうが、ナターシャは いつもパパの味方。
氷河の都合のいい時に登場するのだ。






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