「一輝と氷河のせいで、瞬も、しなくていい苦労をしてるよなー」
「星矢。おまえも、いちいち あの凶暴な二人の相手してんなよ。毎回、とばっちり食わされて、ばっかじゃねーの」
氷河と一輝の いさかいに巻き込まれないために、ジムに併設されている休憩室に逃げ込んでいた他の子供たちが、凶暴な二人の姿がジムから消えたので、ぞろぞろと避難所から出てくる。
彼等は口を揃えて、“いちいち 凶暴な二人の相手”をする星矢を、馬鹿呼ばわりした。
星矢とて、自分が“いちいち 凶暴な二人の相手”をしているから、“凶暴な二人”に友だち認定されていることは わかっていたのだが、こればかりは どうしようもないのだ。

星矢は、瞬と友だちでいたかった。
瞬と友だちでいると、洩れなく あの二人がついてくる。
そして、それとは別に、“友だち”は、自分と同等か それ以上の力を持つ者たちの方が、手応えがあり、面白い。
氷河と一輝の いさかいに巻き込まれることを恐れて、こそこそ休憩室に逃げ込んでいるような者たちとは、一緒にいても“面白く”ないのだ。
“面白くない”者たちの言い草を受け流して、星矢がストレッチでも始めようとした時だった。
氷河と一輝、瞬――三人の騒ぎの元凶たちが出ていったジムのドアの端で 赤いリボンが翻り、
「星矢おにいちゃん、紫龍おじちゃん」
耳慣れない呼び方で、自分と紫龍を呼ぶ者がいることに星矢が気付いたのは。

声の主は小さな女の子らしく、小さな手が、どうやら星矢と紫龍を手招いている。
瞬が庭で見掛けたと言っていた、沙織ではない少女だろうか。
星矢と紫龍は無言で顔を見合わせ、トレーニングを始めた仲間たちに気付かれぬよう、ドアの方に歩み寄っていったのである。
ジムのドアの陰にいたのは、二人の予想通りに、城戸邸にいる誰より幼い小さな女の子だった。
それは予想通りだったのだが、なぜ そんなものが ここにいて、なぜ その女の子が自分たちの名を知っているのかがわからない。
大きな瞳を明るく輝かせた無邪気そうな少女だったが、星矢と紫龍にとって、彼女は、不審人物以外の何者でもなかった。

「……誰だ」
星矢の誰何(すいか)に、
「ナターシャダヨ!」
と、元気な答えが返ってくる。
「ナターシャ?」
それは、星矢たちも知っている名だった。
「氷河のマーマと同じ名だな」
紫龍の呟きに、見知らぬ少女が 得意げな顔になる。

「ナターシャは、パパの娘ダヨ!」
「そりゃ そうだろ」
ナターシャと名乗る この少女のパパがどこの誰かは知らないが、この少女に限らず、世界中の娘は“パパの娘”に決まっている。
気のない星矢の反応に焦れたのか、少女は少し語気を強くした。
「ナターシャのパパの名前は氷河ダヨ!」
「はあ !? 」

氷河という名の人間が、この世界に ただ一人しかいないと言い切ることはできないだろう。
だが、それが人名として 極めて稀少なものであることは、論を待たない事実である。
まして、この城戸邸にいる少女が『氷河』と言うからには、彼女の言う『氷河』はあの氷河以外に考えられない。
しかし、あの氷河が この少女のパパであることは、氷河の年齢を考えれば(考えるまでもなく)更に考えられないことだった。
『パパの名は氷河』と言い張る少女には、それは考えられないことでも何でもないことであるらしかったが。

「ナターシャは、去年 ずっと いい子でいたんダヨ。そしたら、時間の神様が ご褒美をあげるって言ってくれたの。ナターシャ、パパとマーマの子供の頃が見たいって、時間の神様に お願いしたんダヨ。それで、ここに来たの」
これ以上の理路整然はないと言わんばかりの顔で、少女は言い募る。
星矢は、もちろん、彼女の言葉を信じることができなかった。
「それを信じろってのか?」
「ホントダヨ!」
疑い深い星矢に焦れ、少女が かなり向きになる。
肩に掛けていたピンク色のポシェットから、彼女は小さなカードを取り出して、それを星矢たちの前に差し出した。

「これが、パパが作ってくれた、ナターシャの名刺ダヨ!」
「名刺って何だよ」
言いながら、星矢が それを受け取る。
言葉通りに名刺大の紙。
どちらが表なのか裏なのかはわからないが、その一面には文字が記され、もう一面には写真が印刷されていた。
「知らない人にあげちゃダメって言われてるんだけど、星矢お兄ちゃんならいいヨネ。ロシア語で『ナターシャです。こんにちは』って書いてあるの。写真はマーマが撮ってくれたんダヨ!」
「……」

マーマが撮ってくれた写真には、自称“氷河の娘ナターシャ”と、そのナターシャを右手で抱きかかえた金髪の男が写っていた。
金髪の男は、愛想のない――ほとんど無表情。
ナターシャの満面の笑みは、おそらく、カメラを構えている“マーマ”に向けられたものなのだろう。
自身の幸せを信じきっている少女の笑顔は、春の陽光を受けて咲く薄紅色の花のように、夏の日差しを受けて きらめく青緑色の海のように、明るく輝いていた。

「妙に洒落のめした恰好をしているが、確かに 氷河が大人になったら、こんなふうになるかもしれないな。可愛げのない顔だ」
「大人の歳って よくわかんないけど、30くらいか?」
少女には あまり似ていない 少女のパパの顔。
だが、写真に写っている金髪の男の顔は、大人になった氷河の顔としては、極めて妥当なものだった。

「つまり、氷河は大人になって、娘を儲けるということか」
紫龍が、ナターシャの主張を 事実と受け入れた呟きを洩らす。
ロシア語の自己紹介。
氷河に似た成人男性の写真。
それは、幼い少女が城戸邸にいる孤児たちを騙すために用意した小道具としては、あまりに手が込みすぎていた。
そんなことをしても、この少女には何の益もない。
それ以前に、この少女は 嘘をついているように見えなかった。

星矢が紫龍ほど素直に少女の言葉を信じなかったのは、彼が疑り深いからではない。
そうではなく――星矢は ただ、少女の言葉を信じたくなかったのだ。
「信じろって言われても――なあ、チビちゃん。おまえ、今、俺と紫龍の名前を呼んだよな。俺たちも大人になって、おまえたちの家の近所にいるのか?」
「ウン。星矢お兄ちゃんは、いつもナターシャと遊んでくれるヨ!」
「俺たちは……聖闘士になってるのか?」
それは『俺たちは生き延びるのか?』という質問と同義である。
ナターシャは、一瞬の逡巡もなく、
「ナターシャのパパとマーマと星矢お兄ちゃんと紫龍おじちゃんとイッキニーサンは、アテナの聖闘士ダヨ!」
と断言してくれた。

写真の金髪男が氷河なのだとしたら、少なくとも その歳まで、自分たちは生きている――それも、アテナの聖闘士になって生きている――ということ。
それは、嘘でも嬉しい未来の姿のはずだった。
星矢には、全く喜ぶことのできない未来図だったが。

「おまえのパパとマーマと俺と紫龍と一輝がアテナの聖闘士?」
「ウン、ソーダヨ! ナターシャのパパとマーマと星矢お兄ちゃんと紫龍おじちゃんとイッキニーサンは、正義の味方ダヨ!」
明るく得意げに頷くナターシャに、星矢は、『瞬は?』と尋ねることができなかった。
尋ねられるわけがない――答えを聞きたくない。
氷河、紫龍、一輝、そして自分。
そのメンバーが、生き延びる者として いかにも妥当だと思えるから なお一層、星矢は尋ねることができなかったのである。
『瞬は?』とは。
『俺たちの未来に、瞬はいないのか?』とは。

「ナターシャ、パパとマーマには顔を会わせちゃいけないって、時間の神様に言われてるの。ナターシャが、パパとマーマと初めて会うのは 今からずっと先で、その時 パパがナターシャの顔を知ってると、変なことになって、ウンメイが変わっちゃうかもしれないんダッテ」
「そういうもんなのか……」
この少女の言うことが嘘であってくれた方がいい。
そう思う気持ちが、星矢の声を沈ませた。

「ナターシャ、ここに1時間しかいられないんダヨ。もう あんまり残り時間がナイの。だからネ、お庭にいるナターシャが、パパたちを こっそり いっぱい見れるようにしてちょうだい。パパたちが おうちの中に入らないようにして、ナターシャがパパに見つかりそうになったら、隠してくれるだけでいいカラ。パパたちと目が会っちゃったら、ナターシャは 1時間が過ぎる前に すぐに元の世界に戻らなきゃならなくなるの」
「それくらいなら……」

この少女が未来からやってきた氷河の娘だということを信じるわけではない――信じざるを得ないが、信じたくはない。
それでも、この少女と氷河が顔を会わせないようにするくらいなら、大した手間でもないし、してやってもいい。
そんなふうな――少々 投げやりな気持ちで、星矢は少女に頷いた。

「アリガトウ! ナターシャ、お庭の木の陰に隠れてルネ!」
ナターシャが そう言って、裾の広がったスカートと赤いリボンを翻して、庭のツゲの木の陰に駆け込む。
子供の頃のパパの姿を見られるのが嬉しくて、少女は その場に 静かにじっと身を潜ませていることができないらしく、ツゲの木の陰から覗く赤いリボンは 落ち着きなく ちらちらと揺れている。
瞬は、その様を見て、クリスマスツリーのようだと見誤ったのだろう。






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