可愛いが、氷河には全く似ていない少女。
彼女は、彼女のマーマに似ているのだろうか。
ツゲの木の隙間から見え隠れする赤いリボンを眺めながら、星矢は、彼らしくなく 抑揚のない声で呟いた。
「なあ、氷河は瞬を好きなんだよな」
「そう公言しているな」
「……氷河に娘がいるってことは、瞬が死んで、氷河は瞬を諦めるってことなのか?」
「……」

紫龍は答えを返してこなかった。
答えなど、星矢も期待していない。
「俺、やだぞ。瞬が死ぬなんて」
「……」
仲間の死を、誰が喜ぶだろう。
無言で、紫龍は そう言っていた。

「瞬は優しすぎて――確かに、戦いには向いてないのかもしれないさ。けど、俺たちの中じゃ、いちばん立派な夢と志を持ってて――瞬の夢は、この地上世界から 不幸な子供たちをなくすことだぞ。俺たちの中では 瞬がいちばん……いちばん 大人になる価値のある奴なんだ!」
「……ああ、そうだな」
「価値なんかなくたって、俺、やだぞ。瞬がいなくなるなんて」

新年に お年玉がなくても、おせち料理が食べられなくても、初詣に行かせてもらえなくても構わない。
新しい年を迎えたのに特別感が全くなくても、それが何だというのだろう。
どうせ、太陽や星々や地球は、新年だろうと旧年だろうと、そんなことには委細構わず、毎日 同じように動いているのだ。
だが、瞬がいるのと いないのとでは、この世界は全く違うものになってしまう。

瞬がいる世界には希望があり、光があるが、瞬のいない世界に それはない。
瞬が生きていられる世界なら、そこで生きるために努力することには意味があると思うことができるが、冷酷に瞬を見捨てる世界は愛せない。
そんな理不尽な世界が 存在することに、どんな意味があるというのか。
そんな世界は、存在する価値のある世界だろうか。
『ある』と思うことが、星矢にはできなかった。

怒りで、目の奥が熱くなる。
涙を生まないために――星矢は、そこで大声をあげて、庭に隠れている小さな女の子を驚かせてしまっていたかもしれなかった。
城戸邸の母屋の方から、瞬が駆けてくることに気付かなかったら。
まだ涙は零れていなかったのに、星矢は慌てて右の手で ごしごしと目をこすった。
瞬が、回廊に出てきている星矢と紫龍を見付けて、笑顔になる。

「星矢、紫龍。みんな、食堂にいらっしゃいって。厨房のおばさんが みんなに、こっそり お雑煮を振舞ってくれるって。よかったね、星矢。お正月っぽいものを食べられるよ」
「瞬……」
変わり映えのしない新年に不満たらたらの仲間のために、瞬は、厨房のおばちゃんに頼んでくれたのだろうか。
厨房のおばちゃんが 瞬の願いを叶えてやる気になったのも、瞬が仲間思いの優しい子だということを知っているからで、特別感のあるものを食べたいと駄々をこねる子供のためではないに決まっていた。

そんなふうに――心を持つ人は 皆、瞬を愛するのに、心を持たない運命は そうではないというのか。
「瞬……!」
瞬のために、喜んでみせなくてはならないのに、そうすることができなくて、そうすることのできない自分を隠すために、星矢は 瞬の首に ひしと 抱きついた。
星矢の予想外の振舞いに戸惑ったように、瞬が その場に棒立ちになる。

「星矢? どうしたの? やだな。お雑煮 食べられるのが、そんなに嬉しいの?」
「当たりまえだろ! 嬉しいに決まってる!」
「ん……うん。それなら、よかったけど……」
それにしても 喜び過ぎだと、瞬は思っているのだろうか。
だが、星矢は まだ、瞬に自分の顔を見せられるところまで立ち直れていなかった。

「瞬。俺は、おまえが好きだからなっ!」
「え……?」
瞬の困惑は いよいよ大きなものになっているようだったが、他に何を言えばいいのかが わからない。
星矢が この場をごまかしきる自信を持てなくなりかけたところに、どこで頭を冷やしていたのか、どこからともなく氷河が飛んできて、瞬に抱きついている星矢の頭を、手加減なしで殴りつけてくれた。
瞬の首に 絡んでいた星矢の腕を、引きちぎるように 瞬から引き剥がしてから、悪鬼のごとき形相で、氷河が星矢を怒鳴りつける。

「貴様、どういうつもりだっ!」
怒り心頭に発しているらしい氷河を見て、星矢は その10倍 腹が立った。
「どういうつもりも こういうつもりもあるかよ、この浮気者っ!」
「おまえは 何を言っているんだ! 俺はいつも瞬ひとすじだっ。だいいち、浮気なんて、どこの誰に どうやってするというんだ!」
「何が、“瞬ひとすじ”だよ! 言うだけなら、おまえにもできるよな!」

氷河は単純で、不器用で、常に一つのことしか考えられない馬鹿野郎だから、その言葉に嘘はないだろう。
それは星矢にもわかっていた。
今は、それが氷河の嘘偽りのない真実の気持ちなのだ。
それがわかるから――わかるからこそ、星矢は やるせなく、腹が立って仕方がなかったのである。
もしかしたら、氷河に対してではなく、運命というものに対して。

「星矢……?」
星矢の様子が いつもと違うことに気付いたのだろう瞬が、本気で星矢に殴りかかろうとしている氷河の腕を引く。
両手で瞬にしがみつかれ、氷河は それで、あっというまに機嫌を直した――というより、星矢の暴言など、どうでもよくなってしまったようだった。
「みんなで お雑煮を食べられることになったの。氷河。みんなを呼びに行くから、一緒に来てくれる?」
『一緒に来て』と頼まれなくても 瞬にくっついていたがる氷河に、瞬が わざわざ そんなことを言ったのは、星矢を氷河の怒りから引き離すためだったろう。
そして、氷河に暴力を振るわせないため。

「僕たちは ジムにいるみんなを呼びに行くから、星矢と紫龍は先に食堂に行ってて」
『星矢を頼む』と、瞬が紫龍に目配せをする。
紫龍が視線で頷くのを確かめて、瞬は氷河の手を引いて、ジムの入り口に向かって歩き出した。
いつになく積極的で強引な(?)瞬に浮かれて、氷河は瞬に引っ張られるまま。
やがて、二人の姿がトレーニングルームの中に消えていく。
瞬と氷河の姿が完全に見えなくなると、二人と入れ替わりに、それまで庭のツゲの木の陰に隠れていたナターシャが姿を現わし、不思議そうに星矢に尋ねてきた。
「星矢お兄ちゃん、子供の頃はパパと仲が悪かったの?」
氷河がナターシャのパパになっている未来の世界では、大人の分別を身につけたのか、子供(ナターシャ)の手前があるからなのか、二人が喧嘩をすることはないらしい。
星矢は、大人になった未来の自分にまで腹が立ってきた。

「喧嘩するから仲が悪いとは限らないし、喧嘩しないから仲がいいとも限らないだろ」
自分と氷河の仲がいいのか悪いのか、当事者であるにもかかわらず知らなかった星矢は、ナターシャに そう答えたのである。
もともと氷河は、他人と べたべた“仲良く”するタイプの男ではない。
瞬がいなかったら、氷河は、城戸邸にいる誰とも接点を持たず、孤立していただろう。
氷河が瞬を好きでいるから、瞬の友だちや兄は、好むと好まざるとにかかわらず、氷河と関わりを持つことになってしまっているのだ。

星矢の返答は まるで答えになっていないものだったのだが、ナターシャは それで合点がいったようだった。
「ソーダネ。トモダチは、仲がよすぎて喧嘩することもあるんだヨネ。パパとイッキニーサンが喧嘩ばっかりしてるのは、パパとイッキニーサンが仲がよすぎるからなんだって、マーマが言ってタ!」
大人といっていい歳になっても、一輝と氷河は相変わらずらしい。
そして、ナターシャのマーマは、(おそらくはナターシャを不安にしないために)そんな虚偽とも真実とも言い難い理屈で、一輝と氷河は仲がいいということにしているらしい。
ナターシャのマーマは、賢明で聡明な女性のようだった。

「ナターシャ。おまえのマーマは どんな人なんだ? 氷河は……おまえのパパとマーマは仲がいいのか?」
知りたくないのに、訊かずにはいられない。
矛盾した思いから出た星矢の問い掛けに、ナターシャからは元気で明朗な答えが すぐに返ってきた。
「ナターシャのマーマは すっごく優しいヨ。とっても綺麗で、とっても物知りで、ナターシャにいろんなことを教えてくれる。パパはマーマを大好きなんダヨ!」
「そっか……。氷河は……幸せになるんだな……」

瞬がいなくても。
いいことだと思うのに、悲しい。
いくら可愛くて、どんなに優しくても、瞬は男なのに、そんな瞬を好きだと言い張る馬鹿な氷河こそを、自分は好きだったのだと、今になって星矢は気付いたのである。
馬鹿でなくなった氷河とは 本気で喧嘩をする気にもなれず、だから 大人になった自分は 大人になった氷河と、冷静な大人同士の付き合いをしているのか。
それは寂しいことだと、星矢は思った。
そんな星矢の消沈も知らず、ナターシャは どこまでも明るく元気である。

「ナターシャ、帰らなきゃ。もうすぐ 1時間が過ぎちゃう。ナターシャは すっかり元の時間に戻るんだけど、1時間も よその時間にいると、ナターシャが 1時間分 余計に歳をとっちゃうんだって」
「ふーん……そういうもんなんだ……」
「パパは子供の頃にもカッコよかったんだね。ちっちゃなマーマは すごく可愛いヨー。ナターシャ、パパとマーマが見れてヨカッター」
「えっ」

大人になることが ひどく詰まらないことのような気がして、元気なナターシャに 気のない返事を返していた星矢は、嬉しそうに頬を上気させているナターシャの その言葉で、我にかえった。
ナターシャが “ここ”にいられる時間は1時間だけで、おそらくナターシャは城戸邸を出ていない(はず)。
いつのまにナターシャは 彼女の“マーマ”に会ったのだろう?

「星矢お兄ちゃん、あんまりマーマとナカヨクすると、パパがゴキゲンナナメになるから、気をつけてネ!」
「おい、チビ――ナターシャ。おまえ、いつ――」
「パパとマーマには、ナターシャが来たこと、内緒ダヨ。運命が変わって、パパとマーマが ナターシャのパパとマーマになってくれなくなったら、ナターシャ、すごく困るカラ」
「それは内緒にしてやるけど、俺がいつ、おまえのマーマとナカヨク――」
「パパとマーマが こっちに来ル! 星矢お兄ちゃん、紫龍おじちゃん、また会おうネ!」

約束の時間がもうすぐ終わることを、ナターシャは感じ取れているらしい。
早口で そう言うと、ナターシャは 再び庭のツゲの木の陰に駆け込んだ。
「ナターシャ! またって、いつだよ !? 」
ほとんど怒鳴り声になった星矢の問い掛けに、ナターシャからの答えは返ってこなかった。
つむじ風のように、ナターシャの姿は消えていた。
城戸邸の庭のどこにも、もう赤いリボンは見えない。
憂い顔で、ナターシャと星矢のやりとりを聞いていた紫龍も、ナターシャの とんでもない置き土産に驚いて、大きく瞳を見開いている。
そして、“こっちに来ル”のは 氷河と瞬――だった。






【next】