世界と聖域を震撼させた三つの小宇宙は、幸い、倒すべき敵のいる一点に向かって同方向から発せられたものではなかったので、 互いに 力を相殺し合い、世界を壊すことはしなかった。 経過した時間は1秒か2秒か3秒か。 三つの小宇宙が不完全燃焼した教皇の間には、今はただ、気まずい雰囲気だけが もやもやと漂っているばかりである。 「……で、おまえたちは そういう仲なのか」 この気まずい空気の中で 言葉を発することができるのは、彼が強大な力を持つ黄金聖闘士だからなのか、それとも、彼が この聖域の管理運営に責任を負う教皇だからなのか。 はたまた、彼が恋の部外者だからなのか。 いずれにしても、この場で そんな質問を発することのできるカノンの精神力は 並大抵のものではない。 カノンの教皇任命は、決して他に人材がなかったからではなく、彼が教皇に ふさわしい力を備えている見抜いたアテナの英断だった――と、紫龍は、今になってアテナの慧眼に感嘆してしまったのである。 カノンに問われたことに何と答えたものか。 「あの……」 と言ったきり、瞬は、そのあとに続ける言葉を見い出すことができずにいる。 「本当に何でもないのか」 そんな場面で、あくまで低次元問題の真相を究明しようとする氷河の厚顔が、瞬から 外聞を気にし、体面を保とうとする力を奪い取ってしまったらしい。 溜め息を一つ 洩らすと、瞬の肩からは 完全に力が抜けてしまった――ように見えた。 「当たりまえです。どうして、そんな疑いを抱けるの。毎晩一緒に……その……過ごしているでしょう」 恥ずかしそうに氷河に応じる乙女座の黄金聖闘士の姿を見せられて、カノンが白目を剥く。 カノンの精神力は強大だが、どうやら それは ある方向から加えられる力には 極めて弱いようだった。 劈開性を持つダイヤモンドを ハンマーで割ることができるように、カノンの精神力は 恥じらいや可憐さのハンマーに弱いらしい。 しかも、その恥じらいや可憐さのハンマーを振るうのが、現在の地上世界で最も強い戦士の一人となれば、そのギャップが カノンの黒目を白くするのも当然。 白目を剥いているカノンに、紫龍は心の底から同情した。 これまで歴代の黄金聖闘士たちが その命をかけて守ってきた聖域の平和、世界の平和が、ほんの数秒の間とはいえ、男同士の痴情のもつれで、破滅の危機に瀕したのだ。 それを、教皇という責任ある地位にありながら、ほとんど為す術のない傍観者でいることしかできなかったカノンの心中は いかばかりか。 紫龍は、今 このタイミングで教皇などという立場に置かれているカノンに同情しないわけにはいかなかったのだ。 もちろん、教皇位に就いた時には、カノンとて、それなりの覚悟はしたに違いない。 だが、まさか こんなことで世界が破滅の危機に瀕する可能性など、カノンは、その時には考えてもいなかったはずである。 しかも その事態を引き起こした氷河は、世界を破滅の危機に瀕しておきながら、全く責任を感じておらず、それどころか 真顔で、 「なぜだ。瞬はこんなに可愛いのに、何も感じないというのは……。もしかして、貴様、冥界のバトルで身体か心が不能になったのか?」 などという 馬鹿げた疑問を、彼の上司たる教皇にぶつけていくのである。 その上 氷河は、カノンの答えを待つことさえしなかった。 「瞬。おまえは、そんな奴のどこが――」 「頼むから、氷河、もう黙って!」 氷河が自主的に黙る前に、瞬が作り出した黄金の嵐によって、氷河は口がきけなくなった。 氷河を静かにさせた瞬が、やっと 真面目な話を――氷河に比べれば はるかに常識人のカノンにも理解できる話を始める。 氷河さえ静かにしていてくれれば――氷河が聞き役に徹してくれていさえすれば、瞬は 十分に常識人でいることができる人間だった。 「十二宮戦が終わった頃にね、生き延びた黄金聖闘士たちが、アテナが僕たちを――特に星矢を特別扱いすることを案じていたことがあるの。アテナは星矢に目をかけすぎだって。星矢は正直で、まっすぐで、悪いことを考えるような人間じゃないことは、みんな知っていたと思うけど、何ていうか――星矢は 純粋で、いろんなことの機微に気がまわらないところがあって……」 『単純で無神経』を、瞬が別の言葉に置き換える。 当時の黄金聖闘士たちが賢明な人間揃いだったとは、紫龍も思ってはいなかったが、『彼等の心配は ゆえなきことではない』と考えることは、彼にもできた。 「それで、僕は 沙織さんに訊いてみたんだ。沙織さんは、星矢のことが好きなんですかって」 「よく訊けたな」 「ほんとだね。あの時、僕はまだ青銅聖闘士だったし、子供で――重大な責任を負っていない分、言動に軽率なところがあった」 紫龍に、瞬は微笑を返してきた。 今なら とても そんなことは訊けないと、大人になってしまった瞬も自覚はしているらしい。 「沙織さんは、『周囲に 自分を褒め持ち上げるような人ばかり置いて安心している人を見ていると恐くなる』って、僕に言ったよ。沙織さんが 誰のことを念頭に置いて そんなことを言ったのかは知らない。どこかの企業のトップ、どこかの国のトップ、エリスやドルバル――敵味方を問わず、権力の有無を問わず、縁もゆかりもない一般人の中にだって、そういう人って普通にどこにでもいるものだから」 「そうだな……」 紫龍が頷いたのは、大抵の人間は、自分の耳に快い言葉を吐く人間を好み、苦言を呈する人間を退けようとするものだろうと思ったから。 人は誰でも、(自分に)優しい人間を 側に置きたがる。 「沙織さんの周囲に限って言えば――黄金聖闘士っていうのは、アテナを守るために存在するもので、アテナへの忠誠心が篤ければ篤いほど よしとされる人たち、アテナを絶対視する人たちだった。特に、当時の黄金聖闘士たちは、沙織さんをアテナとして聖域に降臨させるための戦いを僕たち青銅聖闘士にさせてしまった負い目もあって、アテナに意見できるような立場の人はいなかった。でも、星矢は沙織さんにどんな遠慮もしなかったから……。星矢は、自分が正しいと思うことは、それがアテナの考えとは違っていることが わかっていても、堂々と意見した。というより、気安く意見した。あの頃、アテナが黄金聖闘士たちより 青銅聖闘士にすぎない僕たちを側に置いたのは、僕たちが、アテナとして覚醒する前の 我儘な少女だった頃の沙織さんを知っていたからだったと思う。アテナも判断を誤ることもあるかもしれないと思ってくれる人が 自分には必要なんだって、沙織さんは言ってた」 「意外だな。あの頃には、沙織さんには もうアテナとしての自覚ができていて、俺の目には 判断を誤ることなどなさそうに見えていたが」 それは そう見えていただけで、もしかしたら その頃、沙織は懸命にアテナらしく振舞おうと努めていた――ということなのだろうか。 そうだったらしい。 瞬は、紫龍に 浅く頷いた。 「そうだったんだって。考えてみれば、当然のことでしょう。それまでは、ただただ幸福な少女だった沙織さんが、突然 地上世界の命運を担う女神の立場に立たされて、戸惑わないはずがない。だから――カノンが 頻繁に僕を呼んで、僕の意見を求めるのは、アテナがそうするようにカノンに指示したからだよ。突然、重責ある立場に立たされた人間の戸惑いが わかるから、沙織さんは そうするようにカノンに言ったんだと思う。僕とカノンは価値観がほぼ真逆でしょう? 教皇の側には そういう人間がいた方がいいって、カノンを教皇に任じる際、アテナがカノンに言ったの。もともとカノンは戦時向きの判断をしがちで、僕は そうじゃない。沙織さんにとっての星矢の役を、カノンに対して務めてほしいって、沙織さんは僕に頼んだ。僕は――僕自身がまだ未熟な子供で、そんなことはとてもできないと固辞したんだけど……」 瞬が切ない色の瞼を、切なげに伏せる。 他に適任の者がいなくても、瞬なら固辞するだろう。 兄に庇われ守られていた幼い頃の記憶が鮮明なせいか、その実力に比して、瞬は 自己評価が極端に低く、基本的に控え目で受動的な人間である。 目の前に 虐げられ苦しんでいる人がいれば、救いの手を差しのべることを躊躇することはないが、その自己評価の低さゆえに、瞬は でしゃばるということをしない――できないのだ。 教皇カノンに関していえば、カノンは 独力でも十分に教皇の務めを果たすことができると思う気持ちゆえに、瞬は 自分がでしゃばることを よしとしなかったに違いない。 それでも 瞬が沙織の依頼を引き受けることにしたのは、もちろん 世界の平和と安寧を願うからだったろう。 そのためには 聖域の再建と秩序の回復が必須なのだ。 だが、それとは別に もう一つ。 その決意を促す要因が、瞬には あったらしい。 「僕は……いつか 星矢が僕たちの許に戻ってきてくれた時、この聖域が、『おまえ、いったい何やってたんだよ』って星矢に言われるような ありさまになっていないようにしたかった。星矢が喜んで帰ってきてくれる聖域を作りたかった。そこで 星矢を待ちたかった。だから、僕にできる限り 頑張ってみることにしたの」 瞬は、友のために、その役目を引き受けたのだ。 星矢は生きている。 星矢は きっと帰ってくると信じるから――信じ続けるために。 瞬らしい――と、紫龍は思ったのである。 友のため、仲間のため。 そのためになら、瞬は、自分にはできないと思うこともする。 必ず 成し遂げてしまうのだ。 「そうか……。沙織さんが、おまえをカノンの相談役に任じたのか」 「俺は、何か重要なことを決裁する際には 必ず瞬の意見を聞くようにと、アテナの指示を受けている。再建のただ中にある今の聖域は、教皇が決裁しなければならない重要案件というのが異様に多くて、瞬には何度も足を運んでもらうことになった」 「なら、最初に そう言っておけば――」 それが“兄さんのため”というのなら、氷河は断固として妨害しただろうが、“星矢のため”となれば、氷河も折れるしかなかっただろう。 一輝は“駄目”だが、星矢なら“仕方がない”。 “星矢のため”と言われれば、氷河は引き下がるのだ。 紫龍の思うところを察したらしい瞬が、困ったように微笑する。 氷河の自由を奪っていた嵐を消し去り、そして、瞬は 左右に首を振った。 「教皇が10以上も年下の子供の助言を聞いているなんてことを公にしたら、教皇の威厳が保てなくなるかもしれないから、このことは公には伏せておいた方がいいって、僕が カノンに進言したの」 「むしろ、皆、安心すると思うが。少なくとも氷河が相談相手を務めるよりは」 紫龍がそう言ったのは、『聖域への元反逆者が 一人で教皇の権力を行使する事態よりは、アテナ子飼いの監視役がついていた方が、皆も安心するだろう』と言わないため。 いわば、カノンへの気遣いだった。 それは氷河にも わかったはずだが――わかったからこそ、紫龍の気遣いを これ幸いとばかりに、紫龍の気遣いに反抗する体を装って、氷河はとんでもないことを言い出した。 氷河は真顔で、 「口出しはしないが、これからは 瞬とカノンの合議の席には、オブザーバーとして 俺が同席するぞ」 と言い出したのである。 「おまえ、まだ 二人の仲を疑っているのか」 紫龍の呟きに 溜め息が混じったのは、氷河の疑り深さに呆れたからではなく、これで氷河も得心し 大人しく なってくれるだろうと考えて 氷河を自由にした瞬の甘い判断を非難してのことだった。 氷河を口がきけるようにするのは、少しばかり 早計だった。 教皇の前でも、氷河は 言いたいことを言うのだ。 瞬とは異なり、ほとんど 聖域の益にはならないことを。 「当たりまえだっ! 俺の瞬は世界一可愛い。おまけに、優しいし聡明だし――」 「だから、それは、氷河一人が思ってるだけで……」 紫龍の溜め息と氷河の妄言で、瞬は 自身の甘い判断を悔やんだが、すべては 後の祭り。 「現に ハーデスが おまえに目をつけたじゃないかっ!」 瞬は、あっという間に、氷河に言い負かされてしまったのである。 要するに、氷河にとって、星矢と紫龍以外の男は すべて敵なのだ。 バルゴの瞬に対するアクエリアスの氷河の執着執心を嫌になるほど知っていて、対処の仕様がないと諦めの境地に達している二人の仲間以外は すべて。 紫龍にとって 意外だったのは、極めて個人的な理由で我儘を言い出した氷河を、カノンが責めなかったこと。 責めないどころか、彼は、 「おまえたちがそういう仲だと気付かずにいた未熟は猛省する」 と、反省の弁さえ口にしてみせたのだ。 「気付かなくていいんです」 瞬は カノンの反省の弁を無用のものと断言したが、カノンは驚くほど殊勝かつ謙虚だった。 「いや。気付かずに、氷河の逆鱗に触れ、聖域を凍らされるような事態を招いていたら、それは、教皇としての責任問題だ」 灯台、もと暗し。 カノンは、自分の足元にあった 途轍もない(途轍もなく低次元の)危険に気付かずにいたことを、大いに恥じているようだった。 はなはだ 情けない責任問題だが、黄金聖闘士の力の強大を思うと、それは、聖域を統べる教皇にも カノンという一人の男にも、当然で必要な用心なのだ。 ジェミニのサガが、世界と聖域に何をしたか。 ジェミニのカノンになる以前、シードラゴンのカノンが 世界とアテナに何をしたか。 この地上世界に 判断の狂った黄金聖闘士ほど 危険な存在はない。 |