俺の焦慮や葛藤も知らず、不吉な城の寒々しい広間では、相変わらず、生気のない鬱々とした やりとりが続いている。
いや、パンドラの様子が 少し変わったか?
妙な緊張感が、パンドラの顔に表われてきている。
「それは誰のことです」
瞬の形をしたハーデスを咎めるように問うパンドラは、緊張が過ぎて、声まで震えていた。
「『誰』? 氷河というのは、人の名前なの?」

パンドラの極度の緊張が、瞬の形をしたハーデスにまで影響を及ぼしたんだろうか。
パンドラだけでなく、瞬の形をしたハーデスの様子までが変わった。
瞬の声。瞬の言葉使い。
これは――この暗い目をした人間は、やはり瞬なのか?
パンドラが うろたえたのは、瞬の声にか、瞬の言葉使いにか。
それとも、瞬に問われたことに?
瞬の心許無げな眼差しに?

間違いない。
これは瞬だ。
俺の瞬。
ここは どこだ。
そして、今は いつなんだ。

「誰かが 僕をいらないって言ったの。僕は その人の力になりたかったのに、僕は その人の力になってあげられなかった。だから 僕は、自分を無力で無価値な存在なのだと思って――こんなはずじゃなかった。こんな暗い世界、僕は望んでいなかったのに……!」
「ハーデス様! それは悪い夢です。思い出してはなりません。思い出せば、ハーデスに何をされるか……」
「僕が僕に何をされるというの?」
「ハーデス様!」

突然、パンドラが、支柱を折らんばかりの激しい勢いで ハープの弦を掻き鳴らす。
それはメロディにもなっていない非楽音で、その激しい弦の音は、広間の下座で寝ていた男を速やかに目覚めさせた――ように、俺には見えた。
だが、その男の様子がおかしい。
眠っていなかった男たちも、眠りから目覚めた男も、覚醒しているようには見えなかった。
目に、全く 光がない。
まるで、パンドラの作った音に驚いて 男たちの魂がどこかに飛んでいってしまったような――虚ろな目をしている。

パンドラは、おそらく、ハープの音を 精神攻撃の技に変換できる力を持っているんだろう。
その力で、パンドラは、広間の下座に控えていた三人の男たちの意識を眠らせてしまったようだった。
その力は、瞬の顔をしたハーデスにも有効で――いや、瞬にだけ有効なのか?
パンドラがハープの弦から指を離しても、瞬の顔をしたハーデスは 意識を保っていた。
俺の瞬を思わせるものが 全く感じられなくなっただけで。
眠らされたのは、瞬の顔をしたハーデスの 瞬の部分なんだ、きっと。

やはり、これは瞬だ。
瞬の心身が何者かに(十中八九、冥府の王ハーデスに)支配されている。
だが、瞬の心、瞬の記憶は、完全に消えたわけでも死んだわけでもないから、時折 表層に現れてしまうんだろう。
瞬を支配しているハーデスの力――気力? ――が弱まった時に。

ハーデスは冥府の王。アテナと同じ神のはず。
してみると、ギリシャの神々は、人間に寄り添いすぎたアテナ以外の神々も、その精神は不動のものではないということか。
無論、その力は 人間のそれより はるかに強大なものではあるんだろうが、絶対のものでも、不変のものでもないんだろう、おそらく。

「……余はどうしたのだ」
人間である瞬の部分は、パンドラのハープの力で押さえつけられ眠らされてしまったというのに、パンドラに尋ねるハーデスの声音は――その声音もまた――確然としているようには思えなかった。
あのハーデスの中で、瞬は 今も必死に抵抗を続けているんだろうか。
それとも、ハーデスの方が、人間である瞬の心に 少しずつ影響を受けているのか?
瞬は、ハーデスだけでなく、ハーデスと ハーデスを守ろうとするパンドラの二人に、その意思の力を抑え込まれているようだった。

「詰まらぬ夢を見ていらしたようです」
それ以外に どんなことがあり得るのだと言わんばかりに 厳然とした口調で、パンドラが断じる。
瞬の顔をしたハーデスは、黒衣の女の言葉に ゆっくりと頷いた。
「夢……そうか。そうだ。夢に決まっている。余が、たった一人の人間のせいで傷付くことなど……」
瞬を傷付けた たった一人の人間というのは、俺のことなのか?
俺が瞬を傷付けたというのか?
俺は、自分の不幸は望んでいたが、瞬には いつだって――瞬だけは いつも幸福でいてほしいと願っていたのに!

「瞬!」
何が起きているのかわからず、自分がどこにいて 何を見ているのかもわからず、だが、俺は瞬の名を呼んだ――叫んだ。
その叫びに応じてくれたのは、だが、瞬ではなかった。

『これは、瞬が あなたに拒否された世界――その未来の姿よ』
どこからか声がする。
この世界ではない、どこか遠くから。
その言葉は真実を語っていると信じられたから、俺は蒼白になった。
「瞬!」
俺が どんなに大きな声で 瞬を呼んでも――声を限りに 名を叫んでも、その声は瞬には届いていないようだった。
夢だから?
だとしたら、いったい誰の夢だ。

『これは、この世界が見ている夢。瞬があなたに拒否された世界が見ている悪い夢よ。あなたが勇気を持たなかったばかりに、瞬は 自分の力を信じ切ることができず、ハーデスの力に屈して、その手で世界を滅ぼしてしまったの』
それは アテナの声だった。
『仲間たちを まっすぐに愛し、仲間たちに愛され、自分と仲間たちの力を信じていられれば、瞬はハーデスの支配など、容易に撥ね返すことができていたでしょうに。瞬には 私もついていたのに。私の助力を得ても、瞬は 自分に力と価値があると信じることができなかった。仲間の幸福に寄与できず、仲間の支えにすらなれなかった無力な存在。それが瞬にとっての自分だったから』

アテナの声は淡々としていた。
俺を責める声ではなかった。
瞬を責めているようにも聞こえなかった。
彼女はただ――彼女の声は ただ悲しげだった。
悲しいアテナの声、言葉――。

俺のせいで、地上世界の命がすべて死滅してしまったというのか?
俺一人のせいで?
『あなたが 幸福になる勇気を持たなかったから。あなたが 希望を持って生きなかったから』
そんな馬鹿なことがあるか!
俺は 無力で ちっぽけな ただの人間だ。
世界だの神だのに比肩する力はないし、瞬の100分の1ほどの価値もない。
そんな俺のせいで、たった一人の弱い人間のせいで 世界が滅びるなんて、そんなことは絶対に あり得ない!

『たった一人の人間のせいで、世界は滅びるわ。全世界を網羅している巨大なプログラムも、小さなバグ一つでダウンする。人間も自然も同じ。たった一人の人間の力は それほど大きいものなのよ。世界を生き永らえさせるのは、そこに生きている すべての人たちの希望の力なのだから』
希望?
希望――希望。
そんな形すらないものに、それほどの力があるというのか?
そんな 不確かで儚いものに、どれほどの力があるというんだ。

これほどの悪夢を見せられても、俺がアテナの言葉を信じることができなかったのは、俺が見たものが希望ではなく、絶望の姿だったから――なのかもしれない。
俺が希望を持てなかった世界の未来が絶望的な悪夢だったからといって、俺が希望を持って生きた世界が明るいものになるとは限らない。
いや、俺は、認めたくなかったんだ。
俺一人が希望を持たず 不幸を望んだからといって、世界が これほど陰鬱で絶望に満ちたものになることを。

その考えを、俺は言葉にしたつもりはなかったんだが、アテナには聞こえていたらしい――いや、彼女は見透かしているのか。
『希望を持っていない人間は猜疑心が強くて困るわ。そんなものは無力で無益――とまでは言わないけど、あまり良いものを生み出さないわよ』
アテナの呆れたような声。
畏れ多くも神に、人間の分際で、俺は何をしているんだ。
アテナも 俺のことなんか放っておけばいいものを。
放っておかないのは、俺が――たった一人の人間が――希望を持って生きるか否かということが、それほどの重大事だということなのか。

『絶望の姿を見ても、希望を持つことはできない――というわけね。では、見せてあげましょうか。希望の姿を』
アテナは、駄々っ子に呆れ 根負けしたような口調で そう言い、俺の視界を遮った。
俺自身は、目を閉じたつもりはなかったから(そもそも 俺は、自分がどこにいるのか、どういう状態でいるのかを認識できていなかった)、多分 アテナは、神の力か何かで、今度は希望のある世界の未来の姿を俺に見せようとしているんだろう。
そう 俺は思った。――んだが。






【next】