地域医療振興協会 練馬光が丘病院は、その名の通り、公益社団法人 地域医療振興協会が運営する総合病院である。 病床数 350床。 外来者数 1日に700名~1000名。 在籍医師数 100名超。 看護師数 300名超。 職員数 200名超。 総合診療科に始まり、内科、外科、小児科、産婦人科、病理診断科やリハビリテーション科まで、28の科があり、基本方針は、『救急医療や小児医療等を中心とした医療の充実、及び 地域医療の推進』。 その目標として、『地域や住民が必要とする医療の提供』『専門医や看護師の確保による良質な医療の提供』『職場環境の整備』を掲げている。 人の命を預かる医療の現場は年中無休。 だが、そこで働く医師や看護師は年中無休とはいかない。 人間である彼等は 適度に心身を休めなければ、彼等を頼ってくる患者たちに 高度で良質のサービスを提供することはできないのだ。 当然、勤務は交代制。日勤、準夜勤、夜勤の8時間3交代制を採っている。 数百人の人間が交代で勤務している病院が 病院としてトラブルなく機能するためには、医師、看護師、職員たちの情報共有と親密な連携が重要。 そのため、光が丘病院では、担当医師や看護師の交代時の連絡の他に、医師や看護師たちによる各種ミーティングやカンファレンスを定期的に実施している。 その中の一つに、新任1年以内の新人看護師(プリセプティ)たちによる毎週のプリセプティ・ミーティングがあった。 連絡事項の伝達、情報の共有を行ない、各部署に配属されて間もない新人看護師たちの新鮮な目で、院内の問題点や要望、疑問点などを自由に発言し合い、その改善方法を考える場。 プリセプターと呼ばれる先輩看護師が5、6名、オブザーバーとして出席するが、プリセプティ・ミーティングは 基本的に新人看護師たちが自由に忌憚のない意見を言い合う親睦会のような位置づけになっていた。 本日のプリセプティ・ミーティングの開催場所は、東館病棟1館のカンファレンス・ルーム。 出席者は着任1年以内の新人看護師24名。先輩看護師プリセプターが6名。 議題は、総合診療科に在籍する、ある医師についての意見交換。 議案を提出したのは、看護師免許を取得後 すぐに光が丘病院に採用されて数ヶ月になる新人看護師たち数名。 全員20代の独身女性だった。 「瞬先生は、お綺麗だし、優しいし、医師としての腕も確かで、知識も豊富。人当たりがよくて、患者さんたちにも慕われています。看護師の人気もダントツのナンバー1。看護師以外の職員の人気もナンバー1」 まずは現状把握ということで、問題の医師の概要説明を行なったのは、議案提出者の一人である臨床検査科の看護師だった。 「ちなみに、この人気状況は、パソコン、スマホでのオンラインアンケートを実施して得たものです。アンケートはプリコード回答法、一部順位回答形式を採用しました。100名超の当院在籍医師の中から三人を選択。1位選択の医師に3点、2位選択の医師に2点、3位選択の医師に1点を加算する方法で集計。在籍看護師や職員の91パーセントから回答を得、その内 無効票となった2件を除外しています。在籍看護師や職員中、97パーセントが瞬先生を1位で選択、在籍看護師と職員の全員が3位内に瞬先生を選んでいました」 「そこまで人気が突出していると、同僚医師に妬まれることも大いに あり得ることでしょうが、瞬先生は そういうこともなく、同僚医師における人気もナンバー1」 と言ったのは、同じく議案提出者の一人である消化器内科の看護師。 「こちらは 集計結果の公表が業務に悪影響を及ぼす可能性も なきにしもあらずで、大っぴらにアンケートを実施するわけにはいかなかったので、非公式の聞き取り調査です。院内での医師たちの交流会開催が近いことを利用して、世間話を装い、先生方に 特に交流を持ちたい医師の名を聞き出しました。普通は、上司や役付きの医師の名を挙げるものだろうということを考えますと、男女を問わず 9割以上の医師が瞬先生の名を挙げたことは、瞬先生の驚異的な好感度を示しているのではないかと思います」 「仕事は真面目。勉強熱心で、常に最新医療の知識情報の取得収集を怠らずにいます。ですが、政治的野心は無いようで、その是非はともかく、出世欲は皆無に見えます」 と言ったのは、同じく議案提出者の一人である脳神経外科の新人看護師。 「年収は1600万前後。さすがに 人事課から聞き出すわけにはいかなかったので、これは推定です。まだ若いですし、医長、施設長等の役職に就くことを すべて辞退しているので、おそらく その辺りだと思います。人事評価はトップクラス、医局長の覚えもめでたいことも考慮して、当院の給与体系から割り出しました」 「あ、瞬先生は もちろん、健康にも問題はありません」 という発言は、議案提案者ではない健診センターの看護師から。 「気になるのは、体脂肪率が10パーセント未満なのに、BMI値が18.5しかないことかな。あの細くて華奢な身体が筋肉の束だなんて考えにくいんですが、少し 痩せすぎなんですよねー」 これまでに発言した看護師より 少々 口調が砕けてきたのは、彼女が そろそろ“新人”と呼ばれなくなる立場にある看護師だったから――かもしれなかった。 その発言が呼び水になったのか、それまで 堅苦しさが漂っていたミーティングの場が、一気に井戸端会議の様相を呈し始める。 「あ、でも、こないだ、昼間っから酩酊した柄の悪い男が院庭に入り込んで暴れ出したことがあったけど、瞬先生は あっという間に その狼藉者を取り押さえちゃったでしょ。瞬先生って、柔道とか合気道とか、何か格闘技の心得があるんじゃないかな」 「私、それ、見てました! 滅茶苦茶カッコよかった! 瞬先生が その狼藉者を鮮やかに取り押さえると、庭に日向ぼっこに出てた入院患者さんたちから 拍手が自然発生して――あれは 面白かったなー! 瞬先生は、取り押さえた狼藉者に、『乱暴なことして、すみません。大丈夫ですか』なんて、ほんとに心配そうに聞いてて。特に被害もなかったから、あの酔っ払いには そのまま帰ってもらったけど、瞬先生がいなくて、誰かに怪我を負わせることになっていたら、間違いなく警察沙汰になってたと思う。酔っ払いは、何が起こったのか わかってない感じで ぼーっとしてて、警備会社の警備員が瞬先生に ぺこぺこ頭を下げてた」 まるで自分が狼藉者を対峙したかのように得意げに言ったのは、リハビリテーション科の新米看護師。 カンファレンス・ルームのあちこちから、 「いいなー。私も見たかった!」 「誰か、動画 撮ってなかったのぉ?」 と、発言許可を得ていない看護師たちの声が上がる。 「公明正大。清廉潔白。入院患者さんからの 心づけや謝礼を断っている場面を幾度も目撃されてます。かく言う私も、そういう場面を何回か見たことありますー」 「ウチの病院の医師や看護師は公務員じゃないから、そういうの、受け取っても 法的には問題ないのにねー」 「原則、受け取らないことになってるけど、あんまり冷たく拒絶すると、かえって患者さんに不安を与えてしまうかもしれないから、現金や金券は さすがにまずいでしょうけど、菓子折りくらいは適当に……ってことになってるのに」 「瞬先生は、そういうものを受け取ると、患者さんへの対応に不公平が生じることを疑われるからって言って、断ってるみたい」 「あ、それでなのかな。『退院時なら いいでしょう』って言って、やたらと豪勢な お菓子や果物の詰め合わせを置いてく患者さんが多いのは。特別待遇を求めるんじゃなく、親切にしていただいたことへの純粋な お礼って言われると、瞬先生も断われないらしくって」 「いただいたお礼は、看護師や職員に回してくれて、ご自分では召し上がらないみたい。先週、夜勤してたら、看護師の病棟詰め所に 開新堂のクッキーの詰め合わせを持ってきてくださった。あれ、2万円くらいするのよね。今日が夜勤でよかったーって、みんなで盛り上がっちゃった!」 「瞬先生、甘いものが嫌いなわけじゃないと思うんだけど。て言うか、多分 きっと好き。瞬先生って、時々 バニラの匂いがしない? 仕事中に香水をつけてるはずないから、あれ、自分で お菓子を作ってるせいじゃないかと踏んでるんだけど」 「わー、ご相伴に預かりたいわあ!」 新人看護師たちの集団は、詰まるところ、若い女子の集まり。 患者や医師の目がないと 緊張感が薄れるのか、これが就業時間内のミーティングだということを忘れてしまい、ほとんど女子会の乗りになる。 そこに、ごほんと わざとらしい咳払いをして 掛けていた椅子から立ち上がったのは、今回の議題を提出した新人看護師の最後の一人だった。 「ですから。そんなふうに 社会人としても医師としても模範的で有能で、夫としての条件も揃っている瞬先生が、なぜ 浮いた噂一つなく 独身なのか。先輩方はどうして誰も瞬先生にアプローチしようとしないのか。私たちは、それが気になってるんです! 気になりすぎて、このままじゃ 仕事にも支障が出かねません。理由を教えてください!」 どうやら 彼女が この議案提出の首謀者だったらしい。 彼女は、議案提出理由を、拳を握りしめて総括した。 |