意見がたくさん出て 白熱した 大変 有意義なプリセプティ・ミーティングは活況のうちに、平和裏に終わった。 が、そのプリセプティ・ミーティングの議事録を送りつけられ、感想を求められた瞬は、とても 平和な気分にはなれなかったのである。 ボイスレコーダーに録音されたミーティングの内容を ほとんど そのままテキストデータに落としたらしい議事録は、無駄に長く詳細。 プリセプティ・ミーティングの熱気と臨場感を、これでもかと言わんばかりに押しつけがましく伝えてくるものだったのだ。 いつも通り1ページか2ページのものだろうと、データ容量も確認せずプリントアウトした議事録は、いつもの10倍。 感想を求められていたので 真面目に全部 読んだのだが、読み終えた時、瞬は本気で プリセプティ・ミーティング出席者たちの正気を疑ってしまったのである。 瞬は、職場では プライベートなことは 可能な限り 秘匿していた。 本業のバトルの内容や 聖域の存在について、一般人に 余計な詮索をされるのは困る。 ナターシャのことも、ナターシャのために、人に知られたくないことは多い。 最近は個人情報保護が重視されているので、プライバシーに関する情報の公開を無理に求められることはないが、看護師たちの情報収集能力は かなりのもの。 看護師一人一人に 洩らす情報は些細なことでも、その些細な情報を一か所にまとめると、それは重大な個人情報になってしまうのだ。 なってしまうということを、瞬は今、プリセプティ・ミーティングの議事録を読むことで知らされた。 ちょっとした油断が どんな事態を招くか、わかったものではない。 感想を書くために再読するのも苦痛な議事録の表紙に視線を落とし、瞬はソファに身体を預けて 溜め息をついた。 「マーマ、ドーシタノー? なんで溜め息 ついてルノー?」 そこに、キッチンで氷河と一緒に“青汁を美味しく飲む方法”の研究と実験に取り組んでいたナターシャが やってくる。 メープルシロップ入りの青汁やら バナナの果肉入りの青汁やらを試飲して、おなか一杯になってしまったらしいナターシャは、これ以上 健康になりたくないと、瞬の許に逃げてきたようだった。 「ん。何でもないよ」 手にしていた議事録をテーブルの上に置き、瞬は ナターシャの方に向き直った。 明るく健やかなナターシャの様子を見ることは、青汁より 瞬の身体を健康にし、プリセプティ・ミーティングの議事録によって疲弊した瞬の心を慰撫してくれるものだった。 看護師たちのミーティング議事録より ナターシャを見ている方がずっと、瞬の心身を健康的なものにしてくれた。 「今度、僕がお休みの時、ナターシャちゃんと何をしようかなあって考えてたの」 「ナターシャ、クッキー作りタイー!」 『アオジルはもう飽きたヨ!』とは、ナターシャは 思っていても 絶対に口にしない。 青汁の試飲には飽きていても、パパの研究のお手伝いができることは、ナターシャには何よりも嬉しいことなのだ。 「ナターシャちゃんは クッキーを作るのが大好きだね」 「大好きー!」 パパの研究のお手伝いができることは嬉しいが、クッキー作りは楽しい。 生地を捏ねて、様々な形を作るのは粘土遊び。 チョコペンでお絵描き。 その上、クッキーは、(焼くのに失敗しなければ)とても美味しいのだ。 これほど楽しい遊戯はない。 「シロップやバナナを混ぜなくても、ナターシャの作ったクッキーと一緒に飲めば、アオジルも美味しくなるのにネー」 「発想の転換だね。あとで、氷河に教えてあげよう。氷河も、ナターシャちゃんの素敵な思いつきに びっくりして喜んでくれるよ」 「パパ、喜ぶー?」 「大喜びだよ。ナターシャちゃんは天才かもしれないって喜んで、騒ぎ出すよ」 「ワーイ!」 パパの喜びは ナターシャの喜び。 パパの幸せは ナターシャの幸せ。 パパに向けられるナターシャの愛は、決して揺らぐことなく、しかも強い。 ナターシャの迷いなく まっすぐな愛が、時折 瞬は羨ましかった。 それは、地上の平和を守ることを第一義とするアテナの聖闘士には許されない 人の愛し方だったから。 自分にはできない愛し方で、ナターシャは彼女のパパを愛している。 そして、それは、氷河の母が 氷河に向けていた愛と同種のものなのだ。 氷河がナターシャを溺愛するのも当然。 ならば、自分はナターシャを守ることで 氷河を幸せにしよう――。 ナターシャの明るい笑顔を見詰めながら、瞬が そう決意した時。 “愛”や“幸せ”と呼ばれるものが生み出す温かさとは異質な――むしろ真逆の――冷たい空気が どこからか漂ってきていることに、瞬は気付いたのである。 “どこから”も“ここから”もない。 その冷たい空気の発生源は、ナターシャを愛し、ナターシャに愛されているがゆえに 地上で最も幸福な男であるはずのしている氷河その人だった。 瞬がナターシャとのクッキー作りの計画を練り始めた その横で、氷河が、光が丘病院の2月第1週のプリセプティ・ミーティングの議事録を読んでいた――ほとんど読み終えていたのだ。 光が丘病院では、業務に関する情報を電子媒体で外部に持ち出すことは原則禁止になっている。 プリセプティ・ミーティングの議事録は、患者の個人情報ではなく、院外秘というほど重要なデータでもないので、瞬はプリントアウトして自宅に持ち帰っていた――のが まずかった。 その内容に、氷河は激怒しているらしい。 瞬は、すぐさま 氷河をなだめようとしたのである。 新人看護師の他愛のない世間話の記録を、真面目に読むのは馬鹿げている――と。 しかし、瞬は、氷河をなだめるタイミングを 既に逃してしまったらしかった。 「何だ、この、『優秀な遺伝子を後世に伝えることが望ましい』なんて、ふざけた言い草は! そんなものより ずっと大切なものを、俺たちはナターシャに伝えている!」 「氷河……」 氷河の激昂は至極尤も。 その主張は、全く正しい。 だが、瞬は できれば、その激昂や主張を ナターシャの前で露わにしてほしくなかったのである。 「病院の看護師たちが集団で 医者のプライベートに干渉してくるとは何事だっ!」 「パパ、プライベートニカンショーってナニー?」 瞬が案じた通り、ナターシャはパパの激昂に反応を示し始めた。 (いつも通り)怒りで冷静な判断ができなくなっている氷河が、馬鹿正直に(?)言わずにおいた方がいいことを、ナターシャにぶちまけてしまう。 「俺とナターシャから瞬を取って、瞬を よその子供のマーマにしようとすることだ。瞬の病院の看護師たちの中に、そういう悪巧みをする悪者が紛れ込んでいるらしい」 「エ……」 そんな悪者が 瞬の勤め先にいることを考えたこともなかったのだろう。 ナターシャはびっくりして、リビングルームのテーブルの脇に仁王立ちに立つ氷河の顔を見上げ、それから、怒れる氷河に訴えた。 「ナターシャのマーマを よその子のマーマに……? ドーシテっ !? ナターシャ、イイコにしてるノニっ!」 「まったくだ。許せん」 「パパもイイコにしてるヨネっ!」 「なに……?」 悪者を責める前に、まず自分自身と自分の味方の行状を確認する。 あまりに思いがけない寝耳に水の事態に衝撃を受けているにもかかわらず、ナターシャは 氷河より はるかに冷静、かつ客観的で巨視的な視点と姿勢を備えていた。 「し……してるぞ、もちろん」 氷河が どもるのは、もちろん自分のイイコ振りに、全く自信がないからである。 「だったら、ドーシテっ!」 氷河より はるかに冷静、かつ客観的で巨視的な視点と姿勢を備えているナターシャの唯一の欠点は、パパを疑うことができないこと。 『パパも イイコにしている』という氷河の自己申告を 一片の疑いも抱くことなく信じたナターシャは、ならば なぜ そんなことが起こるのかが理解できず、眉根を寄せて泣きそうな顔になった。 ナターシャを氷河の側に置くと、氷河の怒りがナターシャの心を不安にする。 瞬は すぐにナターシャの手を引いて、ナターシャを自分の膝の上に座らせ、彼女の視線と意識を氷河から逸らせようとした。 「ナターシャちゃんは気にしなくて いいんだよ。僕はずっとナターシャちゃんの側にいるから」 「ホント?」 「ほんとだよ」 「マーマが パパとナターシャの側にいるって決めても、マーマの病院のカンゴシさんたちが マーマをどっかに連れてったりシナイ?」 「大丈夫だよ。看護師さんたちには、僕はナターシャちゃんが大好きで、ずっとナターシャちゃんの側にいたいんですって、ちゃんと言うから」 「ウン……」 瞬の約束を取り付けても ナターシャが心配顔のままだったのは、氷河が その顔と態度から憤怒の気配を消し去っていなかったからだったろう。 氷河は、どうして こういう時だけ表情が豊かなのか。 ナターシャに気付かれぬよう素早く、瞬は氷河の足を爪先で蹴ったのだが、自分の怒りに夢中になっている氷河は、瞬に蹴られたことにさえ 気付いてくれなかった。 |