『患者さんの命を預かるという重責ある職務に、看護師の皆さんは 日々 緊張を強いられ、時に 神経を磨り減らす思いをすることもあるかと思います。 休養を取るべき時は十分に休養し、励む時には大いに励み、患者さんの信頼に応えてください。 何か問題が生じた時には、我々 医師たちも問題解決のために力を尽くしたいと考えていますので、決して 一人で自分の中に抱え込まず、相談してくださいね。 これからも、よろしく お願いします』 ――とか何とか、瞬が 無難な“感想”のメールをプリセプティ・ミーティングの出席者たちに送って数日が経った ある日の夕刻のことだった。 一人の看護師に、廊下で呼びとめられ(むしろ 捕まえられて)、 「瞬先生のお友だちが引き取った女の子の名前、ナターシャちゃんじゃありませんでしたか?」 と尋ねられたのは。 訝りつつ頷いた瞬に、その看護師が、 「じゃあ、やっぱり あれは、瞬先生と 瞬先生のお友だちと その娘さんのことなんだ」 と、独り言めいた答えを返してくる。 その看護師に“あれ”のことを教えられて、瞬は すぐさま、外来受付のあるフロアに急行したのである。 光が丘病院の外来受付のフロアのある診療棟と病棟を繋ぐ廊下の壁は、外来患者や入院患者の気持ちを和ませるための ささやかな作品展示ギャラリーになっていた。 現在は、光が丘病院の院内保育施設に預けられている子供たちの描いた節分の絵が貼り出されている。 B4サイズの画用紙に描かれた鬼やお多福、豆の入った升の絵が30枚ほど。 それらの展示物の中に、一枚だけ異色の絵が混じっていた。 サイズは一回り大きいA3サイズ。 鬼もお多福も豆もない、花畑の絵である。 中央に三人の人物。 黄色い髪のパパと、ツインテールの女の子。栗色の髪のマーマ。 絵の中の三人は、頭部の2倍はありそうな大きな手で、しっかりと手を繋ぎ合っている。 絵には、もう一枚、絵と同じサイズの画用紙に書かれた手紙が付されていた。 『パパとナターシャは マーマのいうことをきいて いいこにしています。 パパとナターシャから マーマをとらないでください。 よろしくおねがいします。 ひかりがおかびょういんの かんごしさんたちへ』 『を』の字が『と』の字に、『ね』の字が『ぬ』の字に酷似しているが、ちゃんと『へ』と『え』の使い分けができている。 添えられている手紙を読むまでもなく、クレヨンで描かれた絵を一目 見ただけで、それがナターシャの手になるものだということが、瞬にはわかった。 が、なぜ ナターシャの絵が 病院内ギャラリーに貼られているのかが わからない。 氷河が反対するので、ナターシャは外部の保育所等の施設に預けられたことがなく、ナターシャの世話は 彼女のパパとマーマ、その友人以外の人間の手に委ねられたことがなかったのだ。 絵の前には、15人ほどの鑑賞者。 手紙の意図は 第三者にも十分に伝わっているようなのだが、肝心のパパとマーマの名前が書かれていないので、絵の鑑賞者たちは、それが誰の絵なのかがわからず、あれこれと憶測し合い、ざわついている。 ナターシャの名を聞き知っていた看護師たちが、手分けして瞬を探してくれていたらしかった。 「どうして……」 「瞬先生」 ナターシャの絵の前の人だかりの後ろで呆然としていた瞬に、見物人の間を縫って 一人の女性が近付いてくる。 それは、休みが重なった日に 時折 光が丘公園で会う、ナースセンターのセンター長だった。 準夜勤で 病院に来たばかりなのか、彼女はまだ私服のままである。 「瞬先生、すみません。これは、うちの娘の仕業のようで――」 「センター長の娘さん? でも、これは……」 「うちの娘が、夕べ こっそり貼っておいたらしいんです。今、保育所の方に預けてきたんですけど、妙に そわそわしているので、訳を聞いたら――」 センター長の娘は、夕べ 自分がギャラリーに貼った絵が ちゃんと皆に見てもらえているかどうかが気になって、そわそわしていたらしい。 それを聞いたセンター長は、慌てて ここまで駆けてきたのだが、絵の前には人だかりができていて、どうしたものか対処に困っていた――と、申し訳なさそうな顔をして、彼女は瞬に詫びてきた。 絵がギャラリーに貼られたのが夕べのうちだったのなら、この絵は既に相当数の患者や医師、看護師の目に触れたあとなのだろう。 今更 慌てたところで どうにもならない――と判断し、瞬は少し腹が据わってきた。 そして、これはセンター長が 済まながるようなことではない――と思ったのである。 「いえ、でも、これは確かに、うちのナターシャちゃ――ナターシャの絵と字です」 「ええ。それは そうなんですが……。うちの娘が、光が丘公園でナターシャちゃんと お友だちになって、うちの病院の看護師たちがナターシャちゃんから瞬先生を取ろうとしているという話を聞いたんだそうです。娘は、私が 光が丘病院に勤めてることをナターシャちゃんに話して、そんなひどいことをしようとしてる看護師たちに 私から注意してもらうからって 慰めたそうなんですが、それでも ナターシャちゃんは不安だったらしくて――。それで 二人は相談して、看護士さんたちへのお願いの手紙を届けようという計画を立てたそうなんです。ナターシャちゃんは、瞬先生を守るために、自分で何かをしたかったんでしょう。うちの娘は、ナターシャちゃんより 少し お姉さんなので、ナターシャちゃんを助けてあげたかったようで――」 「あ……」 自分の望みを叶えるためには、自分が努力しなければならないと考えるナターシャ。 お友だちの苦境を何とかしたいと、真剣に考えるセンター長の娘。 ブランコに乗りながら、あるいは 芝生広場の木の下で、二人の少女が 大人たちに知られぬよう、内緒の計画を立てている様を、瞬は容易に思い描くことができた。 「娘は、最初は 顔馴染みの看護師の一人に絵を渡すつもりだったらしいんですけど、ここに貼り出した方が大勢の人に見てもらえると、夕べ 突然 思いついたとかで……」 「それで……」 責任感が強く 世話好きなことで知られるセンター長の娘なら、頼り甲斐のある姐御肌の少女なのだろう。 しかも機転が利く。 瞬は、センター長の娘に感謝こそすれ、詫びてもらいたいとは毫も思わなかった。 「こちらこそ、ご迷惑を おかけして 申し訳ありません。どうもありがとうございます」 と、瞬がセンター長に腰を折ろうとした時。 「そうだったんですかー……」 「さすがは、瞬先生の娘さんとセンター長の娘さん。素晴らしい行動力」 「成功する人、出世する人って、そんな ちっちゃなうちから 大器の片鱗を示してるものなのねー」 「栴檀は双葉より芳し、診断はスタバより看護師ってやつね」 「何よ、それ」 ナターシャの絵を見て あれこれと憶測を たくましくしていたらしい看護師たちが、そこに瞬たちがいることに気付いて、一斉に後ろを振り返った。 どうやら 先日のプリセプティ・ミーティングの議事録は、光が丘病院に籍を置く全看護師に回覧されていたらしい。 そして、光が丘病院に籍を置く看護師たちは ほぼ全員が プリセプティ・ミーティング出席者たちと似たようなことを考えていたらしい。 「私たち、そんなつもりじゃなかったんです」 「ナターシャちゃんに、ごめんなさいって伝えてくださいー」 と、瞬に謝罪してきたのは、プリセプティ・ミーティングに出席していた看護師たちばかりではなかった。 人間が外界から得る情報の9割は視覚から得られる――というのは、全くの事実なのだろう。 ナターシャの絵は、見事に光が丘病院に籍を置く看護師たちの心を捉え、強く揺さぶったようだった。 |