「えっ?」 つらくて痛い修行。 厳しくて恐い先生。 アテナの聖闘士になるための修行は 楽しくて愉快と言ったつもりはない。 聖闘士の先生は 甘くて優しいと言ったつもりもない。 だというのに なぜ、ナターシャは そんなことを言い出したのか。 ナターシャの考えが わからず、瞬は少々――否、大いに――慌てた。 「ナターシャちゃん。アテナの聖闘士になるのは大変なんだよ。星矢が言ったでしょう。アテナの聖闘士になるためには、つらくて痛い修行を何年も続けなきゃならないんだって」 「でも、ナターシャがアテナの聖闘士になったら、パパとマーマは嬉しいでショ? こないだ、テレビでやってたよ。ガラスで風鈴を作る小さな工場のおじちゃんが、アトツギがいなくて、工場をやめなきゃならないって しょんぼりしてたの。だけど、そのお仕事を覚えたいっていう女の人が弟子入りしてきて、おじちゃん、すごく喜んでた。工場のおじちゃん、アトツギができて すごく嬉しいって言ってたヨ」 「それは……」 後継者不在で廃業するしかなかった工場に後継者ができることと、アテナの聖闘士が まとう聖衣にふさわしい力を有する継承者が現われることを同列に語ることはできない――その二つの事柄は全く別のこと。 そう言いかけて、だが、瞬は その言葉を声にしてしまうことができなかったのである。 ナターシャに、『どう違うノー?』と問い返されたら、何と答えればいいのだろう。 その答えが、瞬には わからなかった。 実は、その両者に本質的な違いはないのだ。 学習し、鍛錬し、技を身につけ、その技で社会のために務める。 聖闘士の戦いは命がけだが、人間が生きるということは、どんな境遇にある者にとっても命がけのことだろう。 そして 瞬は、いつもナターシャに、アテナの聖闘士の務めは地上の平和を守ることだと言っていたし――敵を倒すことだと言ったことはなかったし――実際 瞬は、アテナの聖闘士の務めを 敵を倒すことだとは考えていなかったのである。 「ナターシャは、聖闘士になって、パパとマーマと一緒に アテナ・エクレアを撃つんだよ!」 「甘くて 美味しそうな技だね」 アテナの聖闘士の戦いの現実を ナターシャがわかっていないことは、幸いなことなのか、それとも 不幸なことなのか。 そんなことさえ、今の瞬には わからなかった。 「ピンクの聖衣、可愛いヨ。アトツギがいないのはモッタイナイヨ!」 「よりにもよって、目当てはアンドロメダの聖闘士かよ!」 「ナターシャじゃ、可愛くないからだめ?」 「そんなことないよ。ナターシャちゃんは とっても可愛い。でもね……」 『でも』何なのだろう。 困惑する瞬の思いを、星矢が言葉にしてくれた。 「瞬、氷河。おまえ等、ナターシャに後を継いでもらえたら、嬉しいか?」 「……」 それが問題。 問題は そういうことなのだ。 瞬は、氷河の顔を見やり、氷河が自分と同じ気持ちでいることを知った。 『嬉しいか』と問われて、すぐに『嬉しい』という答えが出てこないことで、ナターシャのパパとマーマの気持ちは明白。 しかし、ナターシャが聖闘士になることを『嬉しい』と思うことができないのは、あくまでナターシャのパパとマーマなのであって、ナターシャ自身ではないのだ。 自分がアナテの聖闘士であることを“嬉しくない”と思ったことはない。 はるか昔には そんな思いを抱いたこともあったかもしれないが、今はない。 アテナの聖闘士であることをやめろと言われたら、自分が『やめない』と答えることも知っている。 アテナの聖闘士として戦うことで得た、多くの価値あるもの――平和、地上に生きる人々の命、自身の生の意義、そして、信じることしかできないほど強い絆で結ばれた友。 安らぎや幸福ですら、瞬のそれは、友と共にあることの中にあった。 アテナの聖闘士である今の自分を幸福だと感じている。 アテナの聖闘士であることで、得たものは多い。 だが、瞬たちは、アテナの聖闘士であることで 失ったものもまた多かったのだ。 『ナターシャは 十分に悲しんだ。ナターシャには もう 幸せな思い出以外は必要ない』 ナターシャが聖闘士になれば、氷河の その願いは叶わないだろう。 アテナの聖闘士になるということは、そういうことなのだ。 アテナの聖闘士は――得られる喜びも与えられる悲しみも大きすぎ、多すぎる。 「ナターシャなら、才能あるかもしれないぜ」 「うん……」 聖闘士は、小宇宙の質と大きさが、その戦い方と勝敗を決める。 ナターシャは日常的に強大な小宇宙に触れ、その具体的な生み方は ともかく、本質は わかってしまっている。 そして、聖闘士になれば、ナターシャは おそらく一般人の社会にいるより、自身の身体の傷を気にせずに生きていられるだろう。 とはいえ、戦いの中で、へたに顔の無い者に関わり、自分が顔の無い者の一員だった頃の記憶が戻ったりしたら――。 ナターシャは、聖闘士にならなければ苦しまずに済んだ苦しみを苦しみ、聖闘士にならなければ悲しまずに済んだ悲しみ悲しむことになるのではないか。 そして、最悪の場合――。 「ナターシャ、聖闘士のシュギョーが どんなにつらくて痛くても、イッショーケンメー頑張るヨ!」 最悪の場合、彼女は、明るい希望に満ちた その笑顔を 永遠に失ってしまうのだ。 「ナターシャちゃんがどうしてもっていうのなら、僕は反対はしないよ。でも……」 それがナターシャを不幸にすることだとしたら、彼女のパパとマーマには『娘には 聖闘士にはならないでほしい』と願う権利くらいはあるはずだった。 「でも、ナターシャちゃんは将来のことを決めるのは、ちょっと早すぎるんじゃないかな。もっと、いろんなお仕事のことを知ってからの方が――。アテナの聖闘士より ずっと、ナターシャちゃんに向いた素敵なお仕事があるかもしれないよ。ケーキ屋さんや お花屋さん、お洋服屋さんもあるよ」 「お洋服屋さんには、ピンクの聖衣はないヨ。ナターシャ、パパとマーマに聖闘士のシュギョーをしてもらう。ナターシャ、どんなに つらくて痛くてもガンバルヨ!」 「黄金聖闘士が二人掛かりかぁ。“英才教育、ここに極まれり”って感じだな」 究極の英才教育で育てられた聖闘士を見てみたいと、興味津々らしい星矢の無責任が恨めしい。 瞬に泣きそうな目で見詰められていることに気付いて、星矢は すぐさま口許の筋肉を引きしめた。 「うん。けど、まあ、本気で進路を決めるには、ナターシャは まだ小さすぎるってのは事実だよな」 「沙織さんに相談してみた方がいい。ナターシャが どんなに聖闘士になることを望んでも、アテナが駄目と言えば、こればかりは どうにもならない」 星矢のそれに比べれば 百倍も真っ当で現実的な紫龍の忠告のおかげで、瞬は冷静さを取り戻した。 紫龍の言う通りである。 アテナの聖闘士になることは、聖闘士志願者の努力や才能だけで実現できることではない。 人がアテナの聖闘士になるには、アテナの承認が必要なのだ。 なにしろ、アテナの聖闘士は“アテナの”聖闘士なのだから。 ナターシャの秘めている可能性や危うさも、アテナなら正しく判断してくれるだろう。 否、むしろ、判断できるのはアテナのみ。 この件に関して、ナターシャのパパとマーマに冷静で客観的な判断はできない――と、瞬は思った。 聖域が人材不足なのは、紛う方なき事実である。 ナターシャにせよ誰にせよ、聖闘士になれるにせよ なれないにせよ、地上の平和を守るために戦う者が多いに越したことはない。 ナターシャが一般人より アテナの聖闘士の存在と戦いの意義を心得ているのも事実。 本気で進路を決定するのは、ナターシャには まだ早すぎ、ナターシャはまだ幼すぎるのも事実。 とはいえ、あと数年も経てば、ナターシャは 瞬たちが修行地に送られた歳になる。 あまり のんびり構えてもいられない。 瞬が沙織に連絡を入れると、沙織は、 「ナターシャちゃんは まだ、4つか5つくらいでしょう。バルゴの黄金聖闘士ともあろうものが、すっかり心配性のマーマになってしまって」 笑いながら、ナターシャと面談する時間を確保してくれた。 |