代わってやることはできなくても――氷河に愛されていることを確信できれば、ナターシャは必ず ナターシャの運命に打ち克ってくれる。
その確信が、瞬にはあった。
だから 瞬は、全く躊躇せず、その人に連絡を入れたのである。

母校の付属病院に残っている同期生。
研究と教育が優先される大学附属病院より 臨床優先の一般病院で働くことを希望して、瞬は現在の病院に勤めているのだが、今でも 彼とは 情報交換のために しばしば連絡を取り合っている。
瞬は総合診断科、彼は外科と、専門は違うのだが、研究会や学習会等で 年に数回は顔を会わせることもある、友人にして医師仲間。
彼は、若手の外科医の中では、瞬が最も信頼を置いている人物だった。

「石屋さん。今、オペの予定は詰まってる? 手術を頼みたい患者がいるんだけど」
挨拶も そこそこに用件に入った瞬からの電話を、石屋は喜んでくれた。
互いに医師になって何年も経つというのに、在学中の試験や国家試験に合格できたのは瞬の助言のおかげ、幾度か ぶつかった落ち込みや支障を乗り越えることができたのは瞬の慰撫のおかげと、今でも瞬に恩に着ている石屋は、実に義理堅い男だった。

「城戸さんの手に負えないほどの患者が 僕の手に負えるとは思えないけど…… 城戸さんじゃ、オペできないのか?」
「それは無理。手術をしてほしいのは、僕自身だから」
瞬が そう告げると、石屋は にわかに真剣な――丁寧語になった。
「何の病気です」
「ご……ごく浅い切創なの。ただ、ちょっと事情があって、男らしさを演出しなきゃならなくて――あの、うんとワイルドに、わざと縫合の痕が大きく残るようにオペをしてほしくて――こういうこと、誰にでも頼めることじゃないから……石屋さんでないと頼めない。同期同窓のよしみで――」
「何を言っているんです!」

電話の向こうで、石屋が声を荒げる。
手術の縫合痕を最小にすることは、病巣の除去同様、患者の術後の人生を左右する重大事。
であればこそ、形成外科縫合法、切除縫縮術は医学の一大分野を成しているのだ。
縫合痕を わざと大きくするなど、プライドのある外科医師なら――プライドのない外科医師でも――できることではないし、しない。
石屋の声が 瞬を責めるものになるのは当然のこと。
自分が無理を言っていることは、瞬も承知していた。

しかし、それは立派な医療行為。
幼い少女の心を癒すための、有意義で重要な医療行為なのだ。
石屋が駄目なら、他の医師に頼ってでも――どんな 無理を通しても、瞬は それを成し遂げなければならなかった――そうするつもりだった。
のだが。
瞬が石屋に重ねて頼もうとした その時には、瞬のスマホは もう瞬の手の内になかった。

「すまないが、今の依頼のことは 忘れてくれ」
いつのまにか 瞬の部屋にやってきていた氷河が、瞬から奪い取ったスマホに――石屋ではなく スマホに――それだけ言って、相手の返答を待たずに通話を切ってしまう。
一方的に電話を切られて当惑している石屋の顔を思い浮かべ、瞬は いたたまれない気持ちになったのだが、石屋へのフォローを考えている時間は、今の瞬には与えられなかった。

「馬鹿なことを考えるなっ!」
氷河の怒声が、瞬の上に降ってくる。
しかし、それが馬鹿なことだとは、瞬には思えなかった。
否、馬鹿なことなのかもしれないが、それは必要なこと――少なくとも、意味のあることだと、瞬は思った――思っていた。
「ナターシャちゃんのためなんだよっ」
「瞬! おまえまで、いったいどうしたというんだ! それがナターシャのためになると、おまえは本気で思っているのかっ」

ナターシャのためになるか、ならないか。
そんなことを、瞬は考えていなかった、
今 瞬が考えているのは、ナターシャの涙を止めること。
ナターシャの悲しみを終わらせること。
ナターシャに、氷河の愛情を信じてもらうこと。
今の瞬の望みは、ただ それだけだったのだ。
「僕が 縫合痕だらけになっても、氷河は僕を愛してくれるでしょう? ナターシャちゃんに そのことを わかってもらえれば、ナターシャちゃんは――」
「瞬っ!」

正しいのは 氷河の方。
長い目で見れば、瞬が傷を負うことで ナターシャの心が癒されることは、ナターシャのためにならない。
それでナターシャの心が癒されてしまったら、ナターシャは もう“優しい いい子”ではなくなる。
それは、瞬とて わかっていたのだ。
だが、ナターシャは 今 泣いているのである。
氷河を どんなに激昂させることになっても、瞬はナターシャの悲しみを取り除いてやりたかった。
その方法があるのに 試してみないのは、ナターシャのマーマ失格。
瞬には それは、ナターシャのマーマの怠慢に思われたのである。
だから 瞬は、氷河に反駁しようとした。
『では、他にどうすることができるのだ!』と。
言えば、氷河が一層 激昂することは わかっていたのだが。

瞬が それ以上 氷河を激昂させずに済んだのは、
「はい、そこまで!」
突然 その場に現れた星矢と紫龍のおかげ(?)だった。






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