「そういう事情なら、こんな島に隠れ住んでいるより、アテナの庇護下に入った方がいい。アテナは、邪悪な神々の手から地上を守るべく、人間界に降臨している女神。俺は、彼女に従って 地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士だ。俺と一緒に この島を出よう。おまえのように美しい人間が、こんなところで兄と侍女と たった三人で暮らしていたら、恋もできない。そんな空しい人生は、おまえには ふさわしくない。おまえの幸せは、こんな小さな島の中ではなく、もっと広い世界にこそ あるんだ。おれと一緒に、この島を出よう!」
それで、冥府の王ハーデスの邪まな野望は打ち砕かれ、瞬の身は守られる。
瞬は幸せになり、瞬との恋を実らせた俺の人生も薔薇色。
アテナの機嫌もよくなるだろうし、ついでに、地上の平和も守られる。
まさに一石二鳥三鳥四鳥。これ以上の大団円はない。

そう考えて、俺は一気に まくしたてたんだ。
おまえはハーデスなんかのために、こんな島に隠れ住んでいるべきではない。
この島を出て、アテナの庇護下に入り、俺の幸せな恋人になるべきだと。
知り合って間もない異邦人――というか、たった今 知り合ったばかりの男――に、突然 そんなことを言われた瞬が、驚いたように その澄んだ瞳を 大きく見開く。

瞬が驚く気持ちは わかるぞ。
唐突な俺の提案。
驚くなと言う方が無理だ。
しかし、これは運命の出会い。運命の恋。
俺たちは、出会うべくして出会った二人なんだ。
たった今、俺が そう決めた。

「瞬。おまえが生きるべき場所は、こんな辺鄙な島ではなく、こんな島より もっと広い、光あふれる世界だ。そこで、おまえは幸せな恋をするんだ」
「勝手に、広い世界で恋でも何でもしていろ。ただし、俺の弟とは関わりのないところで」
「そう。勝手に広い世界で 恋で何でも――なに?」
鈴を振るように澄んで可愛らしかった瞬の声が、急にドスのきいた野太い声に変わる。
なぜ そんなことが起こるのか、その答えに行き着く前に、俺は背後から 瞬ではない何者かによって、背中に強烈な蹴りを入れられていた。

俺としたことが、何たる不覚。
瞬の可愛らしさに気を取られ、俺は、背後から敵が近付いてきていることに、全く気付かずにいたんだ。
アテナの聖闘士ともあろうものが。
瞬が その瞳を見開いて、凶悪な敵が近付いていることを教えてくれていたというのに、俺は瞬の無言のサインに気付かなかった。

これは まずい事態だ。
俺は、瞬に、勘の鈍い弱い男と思われてしまっただろうか。
だが、それは誤解だ。
今のは、ちょっと油断していたからで、俺は本当はかなり強いんだ。
瞬に 頼りない男と思われる事態を避けるべく、俺は すぐさま敵を迎え撃つ態勢を整えた。
「何者だっ」
いくら油断していたとはいえ、アテナの聖闘士の背中に蹴りを入れるなど、どこぞの神の―― 十中八九ハーデスの――手の者に違いない。
ハーデスの配下には、彼から冥衣を授けられた100人超の冥闘士がいると聞く。

俺の誰何(すいか)に答えたのは、だが、ハーデスの手下の冥闘士ではなかった。
俺に蹴りを入れた当人でもなく――。
「兄さんっ!」
と、俺の可愛い瞬が、鈴を振るような澄んだ声で 兄を紹介してくれたんだ。
「ニイサ……なに !? 」
瞬が口にした呼称に、俺は驚いた。
絶対に、何かの間違いだと思った。

瞬は、冥府の王ではなく、(たち)の悪い人間に騙されているんだと、一瞬の迷いもなく確信した。
そうに決まっている。
瞬が『兄さん』と呼んだ その男は、俺の可愛い瞬とは似ても似つかぬ悪党面。
瞬が 地上で最も清らかな心と、地上で最も可愛らしい面差しの持ち主なら、瞬が『兄さん』と呼んだ男は、地上で最も凶悪な心と、地上で最も暑苦しい顔の持ち主。
この二人が兄妹だったら、ひな菊の花と牛ガエルだって兄妹だろう。

その牛ガエルが、
「ハーデスの次はアテナだとっ。ギリシャの神々は、俺の弟を手に入れて、いったい何をしようとしているんだ! 瞬、その男の側から離れろ! こっちに来い!」
とか何とか、訳の わからないことを がなり立てる。
この男は、兄を騙って瞬を欺くだけでは飽き足らず、この俺まで騙くらかそうとしているのか。
この可憐な瞬が、こんな男の弟――男――だなんて、二重の意味で あり得ないことだ。

「兄さん、この人に ひどいことしないで。氷河は悪い人じゃないんです。船が難破して、この島に流れ着いただけなの。気の毒な人なの。助けてあげなくちゃ――」
「瞬っ。どうして おまえは、そんなに騙されやすいんだ! ここ数日、海はずっと凪いでいる。船が難破することなど、不可能だ。俺たちは、ハーデスの手を逃れて、この島に渡ってきたんだぞ。そこに、同じギリシャの神の名を出されて、疑わない方がどうかしている。この男の言うことなど、一から十まで信用ならん!」

瞬の兄の言うことは、至極尤も。
俺が瞬の兄だったら、やはり 同じことを瞬に言うだろう。
瞬が 俺を疑うようになったとしても、それは当然のこと。
実際 俺は、船が難破したなんて嘘をついて この島に上陸し、瞬の同情を買おうとした大法螺吹きの卑劣漢だ。
なのに。
「兄さん。でも、氷河は悪い人じゃありません。僕、目を見ればわかります」
なのに、瞬は、俺を信じてくれた。

瞬は、最初から俺の嘘に気付いていたんだろう。
だが、“悪い人じゃない”と思うから、猜疑心の強い兄の冷酷から俺を守ろうとした。
瞬は清らかで可憐なだけじゃなく、聡明で優しく、そして、物事の本質を見極めることのできる目を持っている。
瞬は――可愛らしいだけじゃなく、しなやかな強さをも兼ね備えた素晴らしい人間。
男子でも少女でも、弟でも妹でも、そんなことは 瞬という人間を形作る際の ごく些細な付帯要件にすぎないんだ。

「まったく、おまえは……」
瞬の兄も、瞬には弱いらしい。
瞬には逆らえないらしい。
そして、もしかしたら、一輝は 瞬の判断を無視できない――信じているのかもしれなかった。






【next】