「アテナが聖闘士を送り込んできたのです。瞬様は、いつもの調子で、あんな男を悪い人ではないと言い張って、なぜか 心惹かれているようで……。へたに動くと、アテナが自ら この島に乗り込んでくるかもしれない。冥界なら ともかく 地上で、アテナと正面から事を構えるのは、こちらにとって不利でしょう。もう少し 猶予をいただけますか。必ずや、一輝と瞬様の心を離反させ、瞬様が 自ら望んでハーデス様の許に赴くようにしますから」

パンドラ――普通の人間にしては、表情を読ませない胡散臭い女だと思っていたが、まさかパンドラがハーデスの手先だったとは。
さすがの俺も、代々ミラノ大公家に仕えてきた家の娘が 瞬の敵――というパターンは考えていなかったぞ。
思ってもいなかった事態に、俺は慌てた。
いや、俺が慌てたのは、その可能性に思い至らずにいた俺の間抜け振りに対してだったかもしれない。
瞬が――瞬は パンドラを信じているようだったのに。

パンドラが話しかけている相手は、姿を見せないが、ハーデス自身ではないようだった。
「あの兄弟の心を離反させるなんて 迂遠なことを画策せず、さっさと弟だけを ハーデス様の許に連れてくればよいではないか。ハーデス様は お優しいお方だが、あまり長く お待たせすると、いかに おまえといえど、ご不興を買うことになりかねんぞ」
と、ハーデスに敬称をつけて語るところを見ると。
「瞬様の意思に反して 無理矢理 拉致すれば、それは瞬様の中にハーデス様への反抗心を養うことになりましょう。ハーデス様の益になるとは思えません」
「だがな」
「パンドラの言うことにも一理ある。タナトス。おまえは神のくせに気が短すぎるぞ。おまえは、そもそも 瞬を冥界に連れてくることには反対だったくせに」

パンドラが話している相手は二人。
しかも、神らしい。
気の短いタナトスとやらの方は、かなり柄が悪そうだった。
タナトスといえば、死を司る神。冥府の王ハーデスの従属神。
ということは、パンドラの話し相手の本体は冥界にあると考えていいだろう。

「生きている人間を冥界に呼ぶことには、今も反対だ。だが、それとこれとは別問題。ハーデス様のご意思に従わない人間など、とっとと始末してしまえばいいんだ。そうすりゃ、否が応でも 瞬は冥界に来ることになる」
「生きていなければ役に立たない。ハーデス様が欲しているのは、清らかな魂を宿した瞬の生きている身体なのだということを忘れたか」
「忘れてはおらん。得心できないだけだ。いかに清らかな魂の持ち主といえど、虫けらと大差ない人間を ハーデス様がご所望されることが」
「その虫けらが 途轍もなく美しいのだ。仕方あるまい」

瞬を虫けら呼ばわりするタナトスも不届きだが、そのタナトスをなだめる もう一柱の神の言い草も大概だ。
瞬が虫けらだと?
神の中には、虫けら以下の輩がいるらしい。
かっとなって、俺は、パンドラと虫けら以下の神たちの前に飛び出ていこうとしたんだ。
実体が ここにないのなら、直接攻撃を加えることはできないのかもしれないが、傲慢な神たちに、『虫けらの方が、貴様等より はるかに上等だ!』という事実くらいは教えてやらなければ、俺の気が済まなかったから。
が。
怒りに駆られて岩陰から浜に飛び出ていこうとした俺を、引き止めた人間がいた。

人口3(+ 1)人のはずの この島に、俺以外にも潜り込んでいた奴がいたのかと、俺は一瞬 ぎくりとしたんだが、俺の腕を掴み上げて、俺を岩陰に引き戻したのは、よりにもよって瞬の兄だった。
瞬が侮辱されているのに どういうつもりだと、俺は瞬の兄を睨みつけたんだが――。
「瞬は、パンドラも悪い人じゃないと言うんだ」
いつも激しているような この男でも、声を潜めるという高等技術を駆使することはできたらしい。
瞬と一輝は すべてを承知した上で、パンドラと共に この島に渡ってきたものらしい。
察するに、そうしないと、パンドラがハーデスによって、何らかの危害を加えられかねないから。

この世に、“悪い人”はいくらでもいる。
むしろ、悪い人しかいない。
100パーセント清廉潔白な人間など存在するはずがない。
それは、瞬も例外じゃない。
瞬は地上で最も清らかな心魂を持つ人間であって、完全に清らかな人間じゃない。
瞬は、おそらく、その人の心に ほんの少しでも良心や優しい気持ちであれば、その人間の心の99パーセントが悪心でできていても、『悪い人じゃない』と思ってしまうんだ。
だから、瞬の兄は苦労する。

俺が瞬を この島から連れ出し 安全な聖域に保護するためにすべきだったのは、瞬の説得でもなければ、一輝の説得でもない。
一輝をミラノ大公の地位に復帰させる方策を考えることなんかでは、なおさらない。
ハーデスへの内通者なのか、最初からスパイだったのかは知らないが、ともかく ハーデス側の人間であるらしいパンドラが、ハーデスの期待に沿う働きができなかった時――瞬が聖域に保護された時――ハーデスに罰を与えられないようにすることだったんだ。
そうだったのだと、地上で最も清らかな心魂を持つ人間を弟に持つ男の 暑苦しいツラを見て、俺は知った。






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