とにもかくにも そんなふうに無為に時間だけが過ぎていき――やがて、事件が起こった。 あの虫けら以下の神たちは、どうやらセーシェルセマルゾウガメほどの気の長さも持ち合わせていなかったらしい。 俺がアンドロメダ島に渡ったのが つい半月前だから、奴等を 短気で堪え性のない男たちだと思うだけで、実際には奴等は それ以前からずっと――ハーデスが最初に瞬を差し出すようミラノ大公に要求した時からずっと――事に及ぶのを我慢していたんだから、奴等を“短気”と思う俺の評価は不当かもしれないが。 いずれにしても、俺が瞬に出会った日から僅か半月後、虫けら神たちが暴挙に出たのは紛れもない事実。 すなわち、奴等は、瞬を 瞬の意思に反して、ハーデスの許に連れ去ろうとしたんだ。 その日の午後、俺は瞬と浜に出て、貝を集めていた。 アンドロメダ島の周りには、ミル貝やらマテ貝やらの食用に向いた貝が豊富で、居候の身としては、それくらいの労働はしないと申し訳が立たなかったから。 俺は一応、船が難破して この島に流れ着いた設定になっていたから、金品の類は持参していなかったんだ。 俺と瞬の貝の採集には、無論 お目付け役のパンドラも同行。 言葉にも態度にも出さなかったが、パンドラが俺に好意を抱いていないのは明白で、彼女は いつも険のある目で俺を睨んでいた。 彼女が俺を敵視するのは、俺の存在が彼女の仕事の遂行の妨げになるからというより、俺が瞬に向けている思いが 友情や感謝の念とは異なる種類のものだということを感じ取っているから――のようだった。 虫けら神たちの襲撃は、前触れもなく 突然 始まった。 晴れて穏やかだったアンドロメダ島の浜の上空に、突然 不自然な黒雲が現われ、その雲が 竜巻か何かのように瞬の身体を空中に巻き上げようとしたんだ。 奴等は おそらく、自分たちが その日 襲撃に及ぶことを事前にパンドラに知らせていなかったんだろう。 「瞬様!」 パンドラが、俺より先に異変に反応して 瞬の側に駆け寄ろうとしたのは、彼女が虫けら神たちが こんな暴挙に及ぶだろうことを察し、案じていたからだったのかもしれない。 「タナトス! 瞬様を離しなさい!」 虫けら神たちに 無体をやめるよう制止の声を張り上げたのも、俺よりパンドラの方が早かった。 彼女は、瞬を包んでいる竜巻のような黒雲に向かって何らかの力を及ぼし(それも小宇宙だったんだろうか?)、そのために、宙に浮きかけていた瞬の身体は いったん砂浜の上に戻った。 「パンドラ! なぜ邪魔をする!」 姿を見せない虫けら神――タナトスの方だ――の苛立った声。 こうなっては、もはや 俺も小宇宙を燃やすのを ためらってはいられなかった。 瞬を、ハーデスはもちろん、虫けら神共に奪われてたまるか。 俺は、すぐさま、俺の小宇宙を極限まで高めたんだ。 「アテナ! 俺たちをここから聖域に運んでくれ!」 そう願い、多分 その願いを声にも出して。 だが、小宇宙を燃やした途端、俺は、俺の小宇宙が 瞬を虫けら神たちから守ることと アテナに救援を求めることを同時に行うには 力が足りないことを思い知ることになった。 俺とパンドラの力を合わせても足りない。 そう感じた瞬間に、瞬と黒雲の間に、どこからか もう一つの小宇宙が飛び込んでくる。 アテナの小宇宙ではない。 アテナの小宇宙は、こんなに好戦的じゃない。 『ならば、誰の?』と考えるより先に、 「瞬を離せっ!」 という一輝の咆哮。 なぜ一輝が小宇宙を燃やせるんだと、俺は混乱したんだが、一輝は どうやら 自分が小宇宙を生んでいることに気付いていないようだった―― 一輝は、意識して小宇宙を燃やしているのではないようだった。 一輝は、自分の弟をさらっていこうとしている不気味な黒雲に、ただ怒りをぶつけているだけ。 一輝が自覚できているのは、自分の怒りだけのようだった。 いや、それすら 自覚しているかどうか。 虫けら以下の屑野郎でも、神は神ということなのか、その力は強大。 俺とパンドラと一輝の力に不意を衝かれても、虫けら神たちは さほどのダメージを受けなかったらしい。 奴等は 再び、瞬の身体を黒雲でできた竜巻の中に引き込もうとした。 虫けら神たちは、瞬の華奢な身体を 優しく扱おうなんてことは微塵も考えていないようだった。 「兄さ……氷河……っ」 黒い竜巻に捕まっている瞬の声は切れ切れで、ひどく かすれていた。 瞬の身体は今、おそらく 四肢を引き裂かれるような痛みに襲われている。 黒雲の向こうに引きずり込もうとする無体な力と、アンドロメダ島に――地上世界に留まりたいと望む心の間で。 「アテナ、早く! これ以上は もたない!」 悔しいが、俺の力では虫けら神たちに対抗し切れない――瞬を守り切れない。 実体が ここにない虫けら神たちに拳を向けることはできないし、パンドラはともかく、俺と一輝の小宇宙は 敵に攻撃するための小宇宙で、防御のための小宇宙じゃないんだ。 「アテナなどに邪魔はさせぬ」 虫けら神たちは、虫けら以下のくせに神。 その力は、人間の生む小宇宙の力を はるかに凌駕し、瞬の自由を奪うと同時に、瞬を取り戻そうとする者たちへの攻撃もこなせるらしい。 タナトスの小宇宙が 俺たちに向かって襲いかかってきた時、やっとアテナの小宇宙が俺たちを包み、俺たちに向かって牙を剥いたタナトスの小宇宙を引き裂いた。 俺は そう思ったんだ。 これはアテナの小宇宙だと。 温かく優しく、こんな時だというのに穏やかささえ感じられ、にもかかわらず恐ろしく強大な小宇宙。 (アテナ……!) 心の中で叫んだ俺に応えてきたのは、だが、アテナじゃなかった。 (氷河を傷付けるなんて、許さない……!) アテナではない。 (兄さんを傷付けることも許さない!) この強大な小宇宙は人間のもの。 不安定で――不安定だからこそ 急激に増大していく人間の小宇宙。 (パンドラは、ずっと僕を守ってくれていたのに……!) アテナの小宇宙と見紛うほど強大な その小宇宙を生んでいるのは、あろうことか、清らかで優しく華奢で可愛らしい俺の瞬だった。 何なんだ、この兄弟は! 瞬までが、これほどまでに強大な小宇宙を生めるなんて! 俺の驚愕はアテナに向けたものではなかったのに、 「やはり、人間業ではなかったわね」 この段になって、やっとアテナ登場。正確には、アテナの小宇宙登場。 しかし、俺はアテナの小宇宙に安堵するどころじゃなかった。 『アテナ……!』 アテナの小宇宙に触れた虫けら神たちが、ここではないどこかで歯噛みをした――ように感じられた。 歯噛みをしたくもなるだろう。 虫けら神たちは、アテナの敵ではなかった。 というか、アテナは、虫けら神たちの存在を 歯牙にもかけなかった――綺麗に無視した。 俺がアテナの小宇宙を感じた次の瞬間、俺たちは――俺と瞬と一輝とパンドラは――聖域のアテナ神殿の中にいたんだ。 |