「マーマがオウチを出ていった――つっても、瞬は同じマンションの中にいるんだろ」
期待に胸を膨らませていることを ひた隠しに隠し、星矢はナターシャに探りを入れた――もとい、ナターシャを慰めた。
ロビーのスツールに座らされたナターシャが、星矢の その慰め(?)に小さく頷く。
それから ナターシャは、力なく首を横に振った。
「ナターシャがマーマのお部屋に行くと、中に入れてくれるけど、でも、マーマはナターシャのお部屋には来てくれないノ」
日曜日の午後。
今日は、氷河の店は休み。瞬も非番。
世の中は春の大型連休に突入したばかり。
ナターシャたちは明日、お弁当を持って、ネモフィラの花畑にピクニックに行くことになっていたらしい。
ナターシャは その計画が中止になることを恐れているようだった。

「見渡す限り、お空と同じ色の お花が咲いてて、海も青くて、真っ青な世界が見られるから 楽しみにしててって、マーマ、言ってたのに……」
ナターシャは、既に 明日のオデカケを諦めているのか、しょんぼりと肩を落としている。
「で、喧嘩の原因は何なんだ?」
と、星矢が尋ねたのは、もちろん しょんぼりしているナターシャを放っておくわけにはいかなかったからである。

どんな面白いことが起きているのかと、期待で胸がわくわくしていることも、その事件(?)の内容を知りたいという好奇心が存在することも事実だったが、まずは、すっかり しおれているナターシャを元気にしてやらなければならない。
仲のいいパパとマーマ( = 瞬の言うことを よく聞く氷河と、氷河の無茶を 余裕の笑顔で受け流す瞬)を見慣れているだけに、瞬の家出(といっても、同じマンションの内にいるのだが)に、ナターシャは かなりショックを受けているようだった。

喧嘩の発端は、明日のお出掛けの打ち合わせだったらしい。
もちろん、万難を排して お出掛けに行く。
だが、万々が一、悪者が現われて、氷河と瞬がアテナの聖闘士としての務めを果たさなければならなくなった時は、お出掛けは延期。
瞬にそう言われたナターシャは、普段から不思議に思っていたことを 瞬と氷河に訊いてみたのだそうだった。

「パパとマーマは正義の味方でショ? それで、地上の平和を守るために戦ってるでショ? もし この世界に悪者がいなかったら、パパとマーマは地上の平和を守るために戦わなくてもよくなって、いつもナターシャと一緒にいてくれるんだって、ナターシャ、思ったの。だから、ナターシャ、パパとマーマに訊いてみたの。どうして、この世界には悪者がいるの? って。そしたら、マーマが――」
「瞬は何と答えたんだ?」
と 興味深げに尋ねたのは、問答無用で この場に引っ張ってこられ、つい先ほどまで ほとんど気乗り薄の顔をしてた紫龍だった。
紫龍自身は、星矢と違って、よその家庭のごたごたに 積極的に頭を突っ込んでいくつもりはなかったし、よその家庭のごたごたに巻き込まれたくもなかった。
が、地上で最も清らかな魂の持ち主が、この世界に悪者が生まれる事情について、どのような考えを抱いているのかということには、紫龍も興味を抱かずにはいられなかったのだ。

ナターシャが しばし考え込む素振りを見せたのは、瞬の答えが一言で説明できるようなものではなかったからだったらしい。
自分の質問に 瞬がどう答えたかを、ナターシャは順を追って星矢たちに話し出した。
「マーマは、それはマーマにも よくわからないって言ってたヨ。でも、もしかしたら、何がいいことで何が悪いことなのか わかっていない人が悪い人になるのかもしれないねって、言ってた。何が悪いことなのか わかっていれば、その人は悪いことはしないはずでショ。誰だって悪者にはなりたくないはずだから。だから マーマは、ナターシャを悪い子にしないために、何がいいことで、何が悪いことなのかを、ナターシャに教えてくれるんだって。お外から帰ってきた時は ちゃんと手を洗って、うがいをするのが いい子で、脱いだ靴を揃えないのが悪い子ダヨ」

どうやら瞬は、ナターシャの質問に明確な答えを与えず、それをナターシャの躾に活用しようとしたらしい。
ナターシャは、この世界に悪者がいる訳を知りたかったのに、瞬がナターシャに教示したのは、ナターシャが いい子でいるためには どう振舞えばいいのかということだったのだ。
ナターシャの説明に、紫龍が浅く頷く。

「善悪の判断がつかない人間が悪者になるという理屈か。確かに、地上を滅ぼそうといる神や人間たちは、自分がしようとしていることを正義と信じていることが多いな」
ナターシャを混乱させないために、瞬たちはアテナの敵を“悪者”ということにしているが、アテナの聖闘士たちの戦いは 異なる正義を信じる者たちの対立であることが多い。
アテナの聖闘士の“敵”は必ずしも“悪者”とは限らないのだ。

紫龍が頷く横で、星矢は くしゃりと顔を歪めた。
瞬の考えに賛成できないからではない。
それでどうして氷河と瞬が喧嘩をすることになるのかが、星矢には わからなかったのである。
ナターシャの説明が続く。

「でも、パパは、何がいいことで 何が悪いことなのかを知ってても、生きるために悪いことをする人もいるって言ってた。おなかが空いてて飢え死にしそうな人が、飢え死にしないためにパンを盗んじゃった時、その人は、パンを盗むのは悪いことだって知ってるだろうって」
「なるほど」
瞬の理屈でいけば、この世界には 意図して悪事を働く者は存在しないことになる。
悪者は、過失犯しかいないことになる。
しかし、現実には――悪者には、過失犯の他に故意犯というものが存在するのだ。
「悪いことをしないで死ぬか、悪いことをしても生き延びようとするか。そのどっちを選ぶかは、その人のカチカンによるんだっテ」

「難しい話してんなー。飯が不味くなる」
飯を食べているわけでもないのに 星矢が そうぼやいたのは、他に適切な比喩を思いつかなかったからだった。
元はといえば、『悪者に邪魔されずにお出掛けしたい』、『パパとマーマが悪者に戦わずに済むようになればいい』というナターシャの素朴な願い。
それが どうして そんな話になるのか。
くしゃりと歪んでいた星矢の顔は、更に くしゃくしゃになったが、紫龍は いよいよ興味深げな顔になり、難しい話の発展に努め始めた。

「ナターシャなら、そういう時、どうするんだ? パンを盗むか、盗まずに飢え死にするか」
「人の物を盗むのは悪いことでショ。ナターシャ、お店の人に、おなかが空いて死にそうだから、ナターシャにパンをくださいって、お願いするヨ」
「いくら頼んでも、分けてくれなかったら?」
「……」
こんな小さな子供に、そんな難しい選択を迫ってどうするのか。
顔を くしゃくしゃにした星矢の前で、だが、ナターシャは ひどく真剣な顔で考え始めた。
随分と長いこと考えて、彼女の答えを紫龍に手渡してくる。

「ナターシャは、盗んじゃうと思う。ちゃんと あとで ゴメンナサイするケド。だって、ナターシャが飢え死にすると、パパとマーマが泣いちゃうヨ」
そう答えてから、ナターシャは、
「ソッカー。ダカラ、悪者がいるんダ……」
と、小さな声で呟いた。

パパとマーマを悲しませないために悪者になるというナターシャ。
紫龍は、しかし、ナターシャを責めたりはせず、逆に 穏和な微笑を浮かべた。
「ナターシャは、パパとマーマが いちばん大事なんだな」
それが ナターシャの価値観なのだ。
そして、ナターシャは 自分が氷河と瞬に愛されていることを知っている。
ならば、ナターシャは、道を誤ることはないに違いなかった。

「生きるか死ぬかを 選ばなきゃならなくなったら――マーマは いつも ナターシャに、何があっても生きるんダヨって言うんダヨ。どんな失敗をしても、何かを間違っちゃっても、生きてれば必ず やり直せるんだっテ」
「そうか……」
瞬は、ナターシャがパン泥棒をすることを想定して そんなことを言ったわけではなかっただろう。
瞬は おそらく、ナターシャが 顔の無い者だった かつての自分を思い出してしまった時のために、そう言ったのだ。
死は解決にならない。罪や過ちは、生きて償うしかないのだと。
だが、瞬に そんなことを言う資格があるだろうか。
――と、星矢は少々 苦い気持ちで思ったのである。

「生きていれば必ず――ね。自分は、平気で地上を守るために命を捨てようとするくせに」
「エ?」
「いや……。それで、どうして喧嘩になるんだ?」
「エート、それはネ。パパとマーマとナターシャで、カチカンの確認をするために、キューキョクのセンタクごっこをしたからなんダヨ」
「は? 究極の選択って、あれか? 『性格の悪い美人と 性格のいいブスだったら、どっちと付き合うか』ってやつ」
「人をブスって言うのは、悪い子ダヨ!」
瞬の躾が行き届いているらしいナターシャが、すぐさま 星矢を叱ってくる。
星矢を叱ってから、今度は ナターシャが顔を くしゃりと歪めることになったのは、それが氷河と瞬の喧嘩の直接の原因だったから――らしい。
眉根を寄せて、ナターシャは、氷河と瞬の喧嘩の原因となった究極の選択の内容を星矢に教えてくれた。






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