「違うヨ。海で溺れてる人のどっちを助けるかダヨ」 「海で溺れてる人のどっちを助けるか――っつーと、『恋人と親友が溺れていたら、どちらを助けるか』ってやつか?」 念のために確認を入れる星矢の声が、気の抜けたソーダ水のようなものになったのは、その設問が星矢にとっては“究極の選択”というほど難しい質問ではなかったからだった。 (一般的には)親友と恋人は、どちらかが男性で、どちらかが女性であるはずである。 となれば、救助者が救助すべきは対象は女性――“恋人”でも“親友”でもなく、“女性”だろう。 『女性は守ってやらなければならない』という、ある意味 古い考えの持ち主である星矢は、疑いもなく そう思った。 が、氷河と瞬を仲違いさせた究極の選択は、選択肢が“親友”と“恋人”ではなかったのだ――なかったらしい。 「パパとナターシャが海で溺れてたら、マーマはナターシャを助けるんだって」 「そりゃそうだろ」 「マーマとナターシャが溺れてたら、パパもナターシャを助けるんだって」 「当然だな」 「ナターシャ、次は、『パパとマーマが溺れてたら、ナターシャはどっちを助ける?』って、訊かれるって思ったノ。それで、何て答えればいいのか、ナターシャ、困ってたんだけど……」 ナターシャの予想に反して、氷河は ナターシャに その質問をしなかったらしい。 当然である。 仮にもアテナの聖闘士が、本来なら彼等が助けるべき か弱い小さな女の子に命を救われてしまったら、それはアテナの聖闘士にとって大変な不名誉。 例え話としてでも、氷河は、そんな仮定文を口にしたくなかったに違いない。 「パパは、『パパとマーマが溺れてたら、ナターシャはどっちを助ける?』って、ナターシャに訊かなかったノ。そうじゃなくて、『パパとイッキニーサンが溺れてたら、マーマはどっちを助ける?』って、マーマに訊いたの」 「あー……それは……」 聞いた途端、星矢と紫龍には、氷河と瞬が喧嘩を始めた訳がわかってしまったのである。 それで 喧嘩にならないわけがない。 「氷河の奴、訊かなきゃいいことを」 「雉も鳴かずば、撃たれまいに」 氷河が 瞬よりナターシャを助け、瞬が 氷河よりナターシャを助けるのは、ナターシャが非力な子供だから――である。 しかし、瞬が 氷河と一輝のどちらを助けるかという質問は、全く別の問題を はらんでいるのだ。 星矢と紫龍は、揃って渋い顔になった。 彼等の予想通り、氷河が発した雉の鳴き声は、猟師の逆鱗に触れてしまったらしい。 「そしたら、マーマは、『そんなことを訊く人は嫌い』って言って、ぷいって、おうちを出ていっちゃった……」 「そりゃ、そーなるよなー」 脱力気味に、星矢がぼやく。 だが、ナターシャには、なぜ“そりゃ、そーなる”のかが わからなかった――今も わかっていないようだった。 「ドーシテ、ソーナルノ? パパは、マーマとイッキニーサンが溺れてたら、迷わず マーマを助けるって言ったヨ」 「まあ、氷河は そうするだろうけどさぁ……」 「なのに、マーマは、パパとイッキニーサンのどっちを助けるか、答えなかったノ。答えないで、おうちを出ていったノ。マーマは、答えがわからなかったノ? マーマは、パパを助けないノ?」 パパはイッキニーサンではなく マーマを助けるのだから、マーマもイッキニーサンではなくパパを助けるはず。 それが、ナターシャの考えなのだろう。 ナターシャは 決して、一輝を“助ける価値のない男”“助ける必要のない男”と思っているわけではない。 そうではなく、ナターシャにとって、それはバランスの問題なのだ。 パパはイッキニーサンよりマーマを助けるのだから、マーマもイッキニーサンよりパパを助けるべき。 でないと、不公平。 そう、ナターシャは考えているのである。 だが、実際の世の中では、愛の天秤は 必ず釣り合っているとは限らない。 釣り合うどころか、一方が天秤皿の上に載っていないことも ままあるのだ。 ナターシャが、不思議そうに首をかしげる。 ナターシャはマーマが公平な答えを口にせず、家を出ていった訳が 全く わかっていないようだった。 「あー、瞬はさ、どっちを助けるって答えても、ろくなことにならないってことが わかってたんだよ。瞬が『一輝を助ける』って答えると、氷河は『おまえは俺より一輝の方が大事なのか』って ふてくされるし、『氷河を助ける』って答えると、『おまえは、俺が一輝より弱いと思ってるからか』って、いじけ――がっかりするだろうし」 「エ……」 星矢の解説に驚いて、ナターシャは、その大きな瞳を更に大きく見開いた。 ナターシャは、瞬に助けられた氷河が 喜ばない――喜ぶとは限らない――ことがあるという可能性を考えてもいなかったのだろう。 「究極の選択は、究極なだけあって、どちらかを選ぶのは難しいんだ」 「キューキョクのセンタクは、キューキョクなだけアッテ、難しいンダー」 紫龍が口にした言葉を復唱して、ナターシャは、大人たちの言動のすべてを理解し納得できたわけではない――という目をして、ごく浅く頷いた。 |