原因と経緯はどうあれ、氷河と瞬が喧嘩をしている状況は、ナターシャのために よくない。
星矢と紫龍は、ナターシャのために、ナターシャと共に、瞬をお迎えに行くことにしたのである。“氷河のため”ではなく、あくまで“ナターシャのため”。
そう言えば、瞬も家出をやめてくれるだろうと期待して。
瞬に謝るよう氷河を説得することより、寛容の美徳を発揮するよう 瞬を説得する方が 容易だろうと考えて。

「瞬。ナターシャがしょんぼりしてるぞ」
「マーマ、おうちに帰ろ。パパも待ってるヨ」
星矢と紫龍の間に立って、家出したマーマを切なげな目で見上げてくるナターシャの様子に、瞬は さすがに気が咎めたらしい。
それでも、瞬は『家出をやめる』とは言わず、ナターシャたち三人を、最近はすっかり別荘状態になっていた自分の部屋に招き入れた。
リビングルームのソファに 星矢たちを掛けさせて、
「ああいうことは訊かないって約束してたのに、氷河が約束を破るから……」
と、言い訳めいた口調で 言い訳めいたことを呟く。

「氷河が 一輝と張り合おうとするのは 奴の癖みたいなもので、氷河も 今では その答えを何としても手に入れようとは思っていないだろう」
紫龍の その言葉に、瞬は縦にとも横にともなく首を振り――暫時の沈黙のあと、瞬は なぜか 昔話を ぽつりぽつりと語り始めた。


「小さな頃――城戸邸で流行ったでしょ。二人の人間が溺れていたら、どっちを助けるかって訊くの」
「ああ、そんなことがあったな」
「そんなの、流行ったことあったっけ?」
内緒話をするように小さく抑揚のない瞬の言葉への紫龍と星矢の答えは、実に対照的なものだった。
人の価値観というものは、案外、そんな記憶の取捨選択に現れるものなのかもしれない。
瞬には それは、(おそらく、紫龍が記憶している理由とは全く別の理由で)忘れられない記憶だったのだ。

「あの質問は――たとえば 氷河に、『一輝兄さんと僕が溺れていたら どっちを助ける?』って 訊くと、氷河は『瞬』って答える。同じことを星矢に訊いても、紫龍に訊いても、他の誰に訊いても、答えは同じだった」
「そりゃ、当然だろ」
「どうして?」
「どうして……って……」
“当然”のことなのに、星矢は答えに詰まった。
星矢が答えに詰まるのは“当然”。――と、瞬は思ったのである。

「選択肢が変わっても、同じなんだよ。一輝兄さん以外の誰かと僕でも、助けられるのは いつも僕。僕以外の誰かと一輝兄さんでも、助けられるのは いつも一輝兄さんじゃない方の誰か。あの頃 城戸邸にいた子供たちの中で、僕が いちばん弱い子供だったから。兄さんは、その逆で、きっと みんなが、一輝兄さんなら自力でどうにかするだろうって思ってたんだと思う」
「……」
瞬の言う通りだったので、星矢は何も言えなかったのである。
今現在はともかく 当時は――星矢が瞬を助けるのは、瞬を好きだからではなく、瞬と仲がいいからでもなく、瞬に 日頃 世話になっているからでもなく(無論、それもあったが)――瞬が弱いからだった。

「もちろん、あれは言葉の遊び。論理の戯れにすぎないものだったよ。実際に どう振舞うかは、実際に そういう状況になってみないとわからないことだし――。でも、ひどいって思った。兄さんは強いから……強い人は誰からも助けてもらえないなんて……」
「いや、でも、それはさ……」
「これが“大人と子供のどちらか”とか、“大人と老人のどちらか”っていうのなら わかるんだ。僕だって、弱い方を助けるよ。でも、同じ子供同士なのに――」
その理不尽が、その不平等が悲しくて――悲しかったから、瞬は その思い出を今も忘れられずにいるのである。
「僕は誰からも助けてもらえるの。僕は弱いから」
誰からも助けてもらえる自分が情けなくて――瞬は あの頃のやりとりを今でも憶えていた。

「だから……僕は、誰かと僕のどっち? っていう選択で、選ばれない僕になりたかったんだ。ずっと そんな僕になりたいって思ってた」
「……」
瞬はまだ、“選ばれない僕”になれていないと思っているのだろうか。
肩を落として 幼い頃の思いを騙る瞬を見て、星矢は不思議な気持ちになったのである。
少なくとも、今の瞬は 弱い人間ではない。
瞬は“選ばれない僕”になるという夢を叶えた。
それ以前に――氷河の『一輝と俺のどっちを選ぶんだ?』は、『どちらを弱いと思うんだ?』という質問ではないのだ。

「普通は、好きな方を助けると考えるだろ。みんな、おまえの方を好きだったんだよ。一輝は、ほら、おっかなかったから。いつもぴりぴりしててさ」
「星矢たちは、一輝兄さんが ほんとは優しいってこと、知ってたでしょ。でも、僕の方を助けるって答えた。僕が弱いから」
「……」
それは否定できない。
もし今 同じ質問を投げ掛けられたなら、星矢は やはり『瞬』と答えるかもしれなかった。
瞬を弱いと思うからではなく、一輝なら自力で どうにかするだろうと思うから。

これは本当に難しい――究極の選択なのだ。
星矢は、再び 答えに窮してしまった。

そこに、
「マーマは、パパとイッキニーサンが溺れてたら、どっちを助けるノ?」
というナターシャからの究極の選択が降ってきたのは、答えに窮した星矢を助けるため。――ではなかっただろう。
むしろナターシャは、なぜ 星矢が答えに窮しているのか、その訳がわからなくて、だから 瞬に その究極の選択をぶつけていったのかもしれなかった。

ナターシャの究極の選択に、瞬が 同じく究極の選択で答える。
「ナターシャちゃんは、僕と氷河が溺れてたら、どっちを助けるの?」
「エ……」
実際に その質問をぶつけられて初めて、ナターシャは、その選択が厄介なものだということに気付いたようだった。
一度 唇をきつく引き結び、ナターシャが 低く呻き始める。

「ンート、ンートネ。パパを助けると、ナターシャは パパに叱られると思う。マーマを助けると、マーマはきっと泣いちゃうと思う。デモ、どっちも助けないと、ナターシャが一人ぽっちになっちゃうし、ナターシャは……ナターシャは――」
泣きそうなのは、ナターシャの方だった。
もちろん、ナターシャが本当に泣き出す前に、瞬はナターシャの煩悶を中断させたが。
「ね。これは すごく難しい問題なんだ。ナターシャちゃんも、そんなことを訊かれたら困るでしょう? 僕も困るんだ。どっちかを選べっていうのは意地悪だよ。氷河は意地悪だ」

「ウン……」
ナターシャは、氷河と違って聞き分けがいい。
意地悪は、悪い子のすること。
そして、ナターシャは いい子だった。
悩むのをやめ、膝の上に両手を置いて、ナターシャが反省のポーズをとる。






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