「あ……」
気がつくと、瞬は、真冬のシベリアにいた。
目の前にあるのは、荒れ狂う灰色の海と、冬の曇天特有の重苦しい灰色の雲。
そして、砂ではなく 雪と氷によって白一色に染められた大地。
そんな場所で、なぜ そこがシベリアだと わかったのか。
不思議なことではあったが、瞬には そこがシベリア――東シベリア海の浜辺だということが わかっていた。

冷たい風がぶつけてくるのは雪かと思ったのだが、実際には それは小さな氷のかけらで、それらが ひっきりなしに、瞬の強張っている頬を打ち続けていた。
小さな氷の粒は、ぶつかるたびに 小さなナイフのように瞬の頬を切っていく。
兄がすぐ側に立っていて、彼は、吹きすさぶシベリア海岸の風よりも冷たく重苦しい声で、瞬の名を呼んだ。
「瞬」
その声は、瞬を責めていた。
瞬の兄は 瞬の名を呼んだきり、続く言葉を口にしようとはしなかったが、彼が弟を責めていることは確実。
その声なき非難は、瞬は混乱させたのである。

(何? 何が起こったの……?)
瞬は その思いを声には出さずに思っただけだったのか、それとも、瞬の声は冷たい風に 掻き消されてしまったのか――。
そんなことすら わからずにいた瞬の手を、誰かが掴む。
そして、ひどく乱暴に 右にとも左にともなく滅茶苦茶に振り回し始める。
それがナターシャの小さな手だということに気付くのに、瞬は かなりの時間を要したのである。
「マーマ! マーマ!」

ナターシャが吹雪のような声で、瞬の名を叫んでいる。
その声が 氷の粒より痛い。
なぜ 自分がこんなところに呆然と立っているのかが わからず――思い出せない。
瞬に、たった今、ここで何が起きたのかを教えてくれたのはナターシャだった。
ナターシャは、だが、それを瞬に教えるつもりはなかったろう。
ナターシャは、瞬を責めるために、その事実を口にしたのだ。
それは、ナターシャの糾弾だった。

「マーマ! どうして、パパを助けてくれなかったの! マーマは、パパのことを好きじゃなかったの? イッキニーサンの方が大事だったの? パパ、溺れちゃった。パパが海に沈んじゃった。マーマ、どうしてパパを助けてくれなかったの……! ナターシャに、パパを返して!」
「あ……」
ナターシャの叫びが、瞬の胸を鋭く細いナイフのように傷付ける。
その痛みを『痛い』と感じてから、瞬は、今 自分がナターシャの目の前で何をしてしまったのかを思い出したのである――思い出したような気がした。

「マーマ、どうしてっ !! 」
ナターシャの声が瞬の心臓を切り裂く。
「ナターシャに パパを返してっ !! 」
幾度も切り裂く。
「ナターシャちゃん……僕は……」
「パパを返して! ナターシャにパパを返して! マーマ、ひどい。マーマ、ひどいよっ!」
思い出したつもりになっていたことを、瞬は明瞭な記憶として 脳裏に思い描くことができなかった。
ただ、自分は自分の夢を叶えてしまったのだと、それが おぼろげにわかるだけ――わかったような気になるだけ。

瞬は、救いを求めて、兄に視線で すがったのである。
幼い頃、いつも そうしていたように。
だが、一輝は何も言わず、まるで氷のように冷ややかな目で瞬を見おろし、見詰めるばかり。
そして、それきり何も言わないまま、一輝に瞬に背を向け、どこかに消えてしまった。
「僕……僕は……」

『溺れているのが俺と一輝だったら、おまえはどちらを助けるんだ?』
『マーマは、パパとイッキニーサンが溺れてたら、どっちを助けるノ?』
僕は選び間違えたのか。
選び間違えて――氷河ではなく兄を選んでしまったのか。

「マーマっ! パパを……パパを助けてっ!」
ナターシャの悲鳴。
記憶が前後している。
記憶の時系列が乱れ切っている。
ナターシャは、パパがマーマに助けられることを願っているのに、瞬は その願いを退けた。
自分の夢を叶えるために。
自分の夢を叶えるために、自分は、ナターシャの幸せと 兄の信頼と、そして 氷河の命を犠牲にしたのだ。

兄の冷たい眼差し。
悲鳴のような風。
瞬を責める雪と氷。
泣いているのはナターシャなのか、自分なのか。
悲鳴を上げたいのは、瞬の方だった。
だが、風と雪とナターシャの嘆きが、瞬に それを許してくれない。
瞬は息ができなくなり、その悪夢に耐えるために、自分の意思で自分の心を凍りつかせた。






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