「マーマ!」 ナターシャが、マーマの許に駆け寄っていく。 「ナターシャちゃん。お手伝い、お疲れ様。今日もナターシャちゃんの お店は大繁盛だったかな?」 ナターシャを抱き上げて、瞬が尋ねると、 「ナターシャ、今日は1500回くらい『ありがとう』を言ったヨ! ナターシャ、パパとマーマの名にかけて、喉がからからダヨ!」 と、彼女は得意げに答えてきた。 「1500回? そんなに売れたの? さすがにそれは――」 蘭子は、一日200食が売れれば、場所代、材料費、人件費を考慮しても黒字、目標は400食と言っていた。 材料も 目標数分しか用意していないはず――と言いかけた瞬に、ナターシャが“1500回のありがとう”の内訳の説明を始める。 「焼きそばへの『ありがとう』が半分で、『可愛いね』への『ありがとう』が半分ダヨ。お昼過ぎに蘭子ママが おそばとキャベツを追加で持ってきてくれたヨ」 「じゃあ、ナターシャちゃんは、一人のお客さんに2回 ありがとうを言ってたんだね。お手伝いを頑張ってるナターシャちゃんが、とっても可愛かったんだね」 ナターシャは数字に強いので、1500回という数に大きな誤差はないだろう。 単純計算で、750食は売れたことになる。 瞬は、蘭子ママの豪快な勝利の大笑が聞こえてくるような気がした。 それも これも、焼きもち焼きの偽金髪男が起こした騒ぎを丸く収めてくれた見知らぬ老人のおかげ。 マーマに褒められて ご満悦のナターシャを氷河の手に渡すと、瞬は その老人の方に向き直り、彼に腰を折った。 「娘と友人が お世話になりました。どうもありがとうございます。とても鮮やかな お手並みで――まるで探偵小説の一場面を読んでいるような気がしました。失礼ですが、もしかして 警察関係の方ですか? それとも観光連盟が手配した警備会社の――?」 「あ、いや。私は通りすがりの ただの爺です。監視カメラの件は出まかせですので、あしからず。今日、ナターシャちゃんに、美味しいビールの飲み方を教えてもらったんですよ。ナターシャちゃんが美人のママを自慢するものだから、ぜひ 花の顔を拝もうと思いまして、また やってきたんです。ナターシャちゃんが言っていた通り、美人だ。ナターシャちゃんが自慢するだけある」 「パパとマーマの名にかけて、ナターシャ、嘘は言わないヨ!」 氷河に抱きかかえられたナターシャは、750回分の『ありがとう』より得意げな顔だったが、その隣りにある氷河の顔つきは険悪としか言いようのないものだった。 それが いつもの妬心や対抗心が作る険しさでないことに気付いて、瞬は首をかしげた。 「前に、うちの店に来たことがある」 その低い呟きは、瞬に知らせるためのものだったのか、老人に知らせるためのものだったのか、あるいは ただの独り言だったのか。 氷河の呟きは聞こえているようだったのに、老人は それを無視した。 「美しい目だ。こんなに美しい目をした人を見たことがない」 氷河の呟きを無視して、老人は何かを探るように 瞬を見詰め続ける。 どこがどんなふうに美しいのかを 瞬自身は知らなかったのだが、それは瞬には言われ慣れた言葉だった。 だが、この老人は これまでの誰とも、言葉にこもっている何かが違う。 だから、瞬は、言われ慣れた その言葉に 奇妙な違和感を覚えたのである。 逆に 氷河は、いつも通り、瞬を褒める男への対抗心が生まれてきたのか、それでなくても仏頂面だった顔に、更に険悪さを増す。 老人は、常人なら恐れおののく氷河の視線に 恐れを為した様子もなく、思いがけないことを瞬に問うてきた。 「こんなに澄んで美しい瞳をした人は、曲がったことが嫌いで、汚れた世の中を綺麗にしたいと お思いでしょうね」 「は……?」 いったい彼は何を言い出したのか。 まるで人類の粛清を目論む神のような――瞬が そんなものであるような口振り。 我知らず、瞬は、どんなに若く見ても80は超えている白髪の老人に 身構えてしまったのである。 彼は神ではない。 神に仕える闘士でもない。 もちろん、小宇宙もない、 だが、自己申告の通りの“通りすがりの ただの爺”でもない。 と、瞬は思った――感じた。 連休最終日。期間限定屋台村の通りを行き交う人々の数は まだ多い。 ここで、これ以上の騒ぎは起こせない。 瞬は、氷河と老人を視線で促して 通りの脇に寄り、それから老人のために 意識して 穏やかな微笑を作った。 「汚れた世の中だなんて……。この世界が 澄みきった泉のようだとは言いませんが、この世界には優しい心を持った人が大勢います。多くの人々の優しさは、この地上を生きるに値する世界にしていると思いますよ。あなたのように、赤の他人の窮地を救ってくださる方も いらっしゃる。そういう方に出会うと、生きていることが嬉しくなります」 人好きのする老人の笑顔、佇まい。 だが、老人の目は 氷河並みに鋭い――と、瞬が思った次の瞬間、老人の目は ふっと その鋭さを消してしまった。 そして、 「テロリストには見えないな……」 と呟く。 「テロリスト?」 重いがけない言葉を聞かされて、瞬は眉根を寄せたのである。 老人は慌てたように、胸の前で 右の手を横に振ってみせた。 「あ、いや、不躾なことを言ってすみません。お気になさらず。ナターシャちゃんが、パパとママは正義の味方だと言っていたので」 「……」 “正義の味方”が“テロリスト”につながる思考がわからない。 困惑した瞬が老人を見詰めると、老人も瞬を見詰め返していて――その瞳は、驚くほど明晰で理知的。何事かを深く考えている人間のそれだった。 たとえば、自分の正体を どうやって隠し通そうかと、そんなことを。 「警察に勤めていた友人がおりまして、その息子が現役の警察官なんですよ。池袋署にいる。その息子が、テロリストは自分を正義の味方だと思い込んでいる――と言っていたのを、思い出したものですから」 それで彼は自分の正体を隠し通せると思ったのだろうか。 思ったのだろう。 だが、彼は すぐに考えを改めたようだった。 「いや、正直に言おう」 と言って、首を左右に振ったところを見ると。 そして 彼は正直になった――らしい。 「私は一介の私人です。これは本当だ。ご覧の通りの年寄りですよ。で……私には 警察OBの友人がいて、二人共 暇を持て余していた。その友人と、先日 一緒に食事をする機会がありまして、暇潰しに 謎解きをしようという話になったんです」 「謎解き……ですか」 「ええ、謎解きです。数ヶ月前、池袋で奇妙な騒ぎがあったことを ご存じですか。公には なかったことになっているのですが」 老人に問われて、瞬は――おそらく氷河も――心臓が撥ね上がったのである。 あの時 氷河は“顔の無い者”の首領の一人であるワダツミと対峙して、そして、かなり派手にやらかしてしまったのだ。 その派手な“やらかし”をなかったことにするために、相当の金と人と力が動いたことを、瞬は辰巳の嫌味 発、貴鬼経由で 知らされていた。 「あの池袋の騒ぎの時、一人の金髪の男が 幾つもの防犯カメラに写っていたんですよ。逃げ遅れたのかもしれない小さな女の子も。一つ二つのカメラなら 偶然と思うこともできるが、10台を下らない数のカメラ。しかも、写っている時間に矛盾がある。いや、矛盾じゃないんだが、あり得ない速さで移動している。A地点のカメラに写っていた1秒後に、1キロ離れたB地点のカメラに写っている――といったようにね。それを見た友人の息子は、カメラに内蔵されているタイマーが狂っていたか、さもなくば、超能力者同士の戦争が起きているのではないかと思ったそうですよ」 「それは……」 警察や自治体、企業が設置した監視カメラに関しては すべて手を回して、その映像は消去されていた(はず)。 だが、防犯設備協会への登録なしで設置されているカメラまでは行き届いていない――洩れがあるだろう。 それがわかっているだけに、瞬は、何も知らない一般人を装うのに苦労した。 こういう時は、いつも 難しい顔をしている氷河の方が、感情や思考の変化を気取られることがなくて有利である。 「友人の息子は――いえ、警察も公安も、当然 捜査に乗り出したんです。そのための捜査本部も設置されることになった。その矢先です。突然 上から圧力がかかって 捜査の中止を余儀なくされたのは。友人の息子は、警察OBの父に上層部への不信をぶつけ、それが巡り巡って、そんな圧力を気にしなくていい民間人の私のところまでやってきたんです。友人の息子は 池袋署の副署長で、それなりの地位にあるんですよ。だが、上からの圧力を跳ね返すことはできなかった。上というのは、どうやら、警視庁でも警察庁でもなく 国家公安委員会。つまり国だ。どういうわけか、あなた方は国家権力に守られている……」 「……」 こういう時、嘘をつけない自分の性分を、本当に厄介だと思う。 瞬は、これまでに、いろいろなことを“なかったこと”にしてきた。 地上の平和を守り、人々の命を守るために必要だと思うことは、義務感によって迅速かつ機械的に遂行することができる。 そうすることに躊躇はない。 だが、人間相手となると――事象や事件ではなく、人間が相手となると――瞬は 途端に、心を持った一人の人間に戻ってしまうのだ。 まして、今、瞬の目の前にいるのは悪意も害意も抱いていない、むしろ善意だけがある正義漢の老人。 そんな人に対して、瞬は嘘をつくことはできなかった。 かといって真実を打ち明けることもできず――だから、瞬は沈黙するしかなかったのである。 氷河は、瞬に輪をかけて、そういうことは不得手。 ナターシャの無邪気な手に髪を弄ばれ、氷河も凍りついている。 そして、瞬が何より恐れていることは、この老人をアテナの聖闘士の戦いに巻き込んでしまうことだった。 だが――。 |