母の最期の言葉を伝えに来たという氷河が 瞬に会うことを、瞬の兄は 不本意ながら許した。 彼は、一人の母の子として、一人の母の子である氷河の求めを退けるわけにはいかなかったのである。 だが、冥府の王は、瞬の兄の許可など不要とばかりに、ふいに テッサリア王城の玉座の間に現れた。 一国の王子が貧しい暮らしに甘んじていた頃の話を 余人に聞かれれば、瞬が軽んじられることになるかもしれないと考えた瞬の兄は、氷河と瞬の対面の場で人払いをしていたので、冥府の王の登場が、城内の人間を巻き込んだ騒動を引き起こすことはなかった。 が、おかげで、テッサリアの王城の玉座の間では、瞬と氷河とテッサリア王と冥府の王が四つ巴で対峙することになってしまったのである。 ハーデスは実体ではないようだったが、長い黒髪の若い男の姿をしていた。 すべての肉親に見捨てられた瞬を これまで見守り続けていたのは自分なのだから 瞬を渡せと、冥府の王は ひどく冷たい声で、瞬の兄と氷河に命じた。 そんなことができるわけがないと、氷河が冥府の王に即答し、即答した氷河が不快でならないという顔で、瞬の兄が同じ答えを口にする。 だが 冥府の王は 二人の返答を嘲笑った。 神にとっては、一国の王も 小さな村の貧しい青年も、等しく無力な人間風情でしかないらしい。 「瞬は、余と一つのものになり、この地上を支配する王となるべきもの。そのための清らかな心と姿。瞬を 今の瞬に育てたのは、余なのだ。そなたたちは、瞬に対して どんな権利も持ってはおらぬ」 高慢な眼差しと声音の冥府の王に 先に異を唱えたのは、今度も氷河だった。 「貴様が瞬のために何をしたというんだ! 瞬の清らかな心を育んだのは、瞬を育てた俺の母だ!」 一拍遅れて、瞬の兄が、 「そして、瞬に美しい姿を与えたのは 俺の母だ! 冥府の王だか何だか知らないが、貴様が瞬にしたことは、瞬から瞬の家族と本来の権利を奪い、瞬を不幸にしたことだけだろう!」 と怒鳴り、冥府の王を睨みつける。 既に失うものが何もない氷河と、冥府の王の力を恐れて 我が子と妻を失った父の姿を見詰め続けてきた瞬の兄。 二人には、神であるハーデスへの畏怖の念は毫もなく、むしろ、神への反逆の心しか持っていなかったのである。 冥府の王が、そんな二人を嘲笑う。 「身の程知らずの愚か者が何を言う。そなたたちは、神の力を恐れて我が子を捨てた女の息子と、余の計らいによって命を永らえていた女の息子ではないか」 「なにっ」 「そもそも、余に愛されると 国が滅びるなどという考えが、愚かすぎる考えだ。余は、地下世界を支配する神。金銀や宝石の鉱脈のある地下を治める余は、富の神でもあるというのに」 「富なんてものに、どれほどの価値があるというんだ!」 「そして、冥府の王である余に逆らうと、その人間は 死後に永劫の苦しみを味わうことになる。そなたたちは――いや、人間たちは皆、余を恐れるべきなのだ。人間が生きていられる時は せいぜい数十年。だが、死後は永遠に続く。死後の永遠のために、生きている間は余を敬い恐れる。それが 人間の正しい生き方だ」 命の時は短く、死は永遠。 まさに それこそが、人間が冥府の王を恐れる最大の理由である。 しかし、瞬の兄と氷河は ハーデスの脅しに怯まなかった。 「貴様の言う“正しい生き方”をして、俺の父は後悔と罪悪感にまみれ、その生を終えた。父が幸福な人間だったとは、俺には到底 思えん」 「死ねば、富などあっても何にもならない。冥府の王が富の神? 貴様の言うことは――いや、貴様の存在は矛盾している!」 冥府の王に逆らえるはずのない人間の反抗が、ハーデスに怒りの感情をもたらしたらしい。 それまでは ただただ冷ややかに高慢だったハーデスの漆黒の瞳が、闇の色を更に濃くする。 彼は残酷な目で、氷河に、 「そなたの母は亡くなったばかりだったな」 と告げ、瞬の兄に、 「そなたの母も 既に余の国の住人だ」 と告げた。 一瞬、二人が、初めて怯む様子を見せる。 「そなたたちの母は、余に瞬を与えた者たち。その功績ゆえに、死後は至福の園エリシオンに運ばれた。その二人を、今から地獄に落としてやろうか」 「し……死後の世界など、見たこともないのに、その存在を信じられるか!」 ハーデスの脅しに屈しまいとする氷河の声は震えていた。 氷河は、自身の死後の罰は覚悟していても、まさか母を脅しの材料にされるとは思っていなかったのだ。 だが、ハーデスは容赦なく、それをした。 「ならば、信じさせてやろう」 ハーデスの言葉が終わらぬうちに、美しい花園の中に立つ二人の女性の姿が、テッサリアの王城の玉座の間、氷河と瞬の兄の眼前に浮かび上がる。 それは、瞬の兄の母と 氷河の母。 瞬の産みの母の姿と育ての母の姿。 氷河と瞬が初めて見る、瞬の実母の姿。 瞬の兄が初めて見る、瞬を育てた母の姿。 三人の生きている人間は、彼女たちを美しいと思った。 彼女たちが母だからなのか、あるいは 魂だけの存在になっているからなのか、ともかく彼女たちは美しかった。 瞬が初めて見る女性が、彼女の息子に訴える。 「一輝。瞬を冥界に来させないで。瞬が冥界に来るということは、その身体を捨てるということよ。私は、瞬に命と身体を与えた母親。その命を精一杯生きてほしい。14年前、私が冥界に来た時――ここで瞬と再会せずに済んだ時、瞬が生きていることを知った時、私がどんなに嬉しかったか。私の与えた身体で、瞬がまだ生きていると知った時、私がどんなに嬉しかったか。ナターシャ様に出会って、瞬の話を聞いて、ナターシャ様が 私の代わりに瞬の心を育ててくれたことを知っていた時、私がどんなにナターシャ様に感謝し、誇らしい気持ちになったか。一輝。私が育てた あなた。あなたは、この母の気持ちが わかるわね?」 瞬の兄―― 一輝は、冥府の王より 母の言葉を恐れ、その言葉の重さに たじろいでいるようだった。彼の頬が、初めて青ざめる。 「氷河。王妃様のおっしゃる通りよ。私のことは気にしないで。私には身体がないのよ。地獄に落とされたところで、痛みを感じるわけではない」 そんなことを言われても――。 もう失うものなど何もないと思っていたから、氷河は 神に逆らうこともできたのだ。 命が終わったくらいのことで 母の愛が消え去り 失われるものであるはずがないのに、氷河は その事実を失念していた。 だが、そうだったのだ。 それは、決して失われない。 「地獄に落とされた人間が、五感を失っているのに苦しむのは、その人間が 自分の罪悪を知っていて、心が痛いと感じているだけ。私は、苦痛など感じない。氷河と瞬ちゃんが幸せなら、痛みなど感じない。それどころか、嬉しいわ。瞬ちゃん、あなたなら 私の気持ちがわかるわね?」 「マーマ……」 そんなことを言われても。 至福の花園で 永遠の平和と幸福に包まれていることこそ ふさわしい人を、自分の幸福のために 地獄に落とすことなど できるわけがないではないか。 そう叫びかけた瞬を、ナターシャは静かに押しとどめた。 「瞬ちゃんは わかっているでしょう? 私が何を望んでいるか」 「氷河の幸せ……」 「氷河と瞬ちゃんの幸せよ。そして、瞬ちゃんのお兄さんの幸せ。私たちの子供たちが 生きて幸せになること。私と王妃様の望みは それだけ。だから、私のことは――私たちのことは 捨て置いて」 「そんなこと、できない! マーマが氷河の幸福を願うマーマだから……兄さんのマーマだから……マーマを捨て置くなんて、そんなこと、僕にはできない……!」 叫んで、瞬は、ハーデスの許に駆け寄ろうとした。 「氷河! 私を大事と思うなら、私の幸福を願うなら、私を見捨てて、瞬ちゃんと幸福になりなさい!」 ナターシャの声が、氷河に訴え、 「一輝! 私の願いを叶えて! 私ができなかった分、瞬を幸福にしてやって!」 王妃の声が、一輝にすがる。 氷河と一輝は、だが、動けなかったのである。 母たちの望みに従うことも、母たちの訴えを退けることも、彼等にはできなかった。 そんな二人を見て、それまで 二人の母の話を黙って聞いていたハーデスが、その口許に 冷たい北叟笑みを浮かべる。 「瞬。そなたは、これほど そなたを愛してる母たちに、永劫の苦しみを味わわせたくはあるまい? さあ。その手を余に。その清らかな魂と美しい身体を 余に捧げるのだ」 「……ええ。あなたの望む通りにします」 瞬には、もはや ためらいはなかった。 自分の周囲には、優しく愛情深い人たちしかいなかったと思う。 これほど幸福な生を生きた人間は、長く広い人間の時間と世界に 数えるほどしかいなかっただろうと確信できる。 氷河を兄ではないと感じる心を 切なく感じるのも、これが最後。 自分を愛してくれた人たちのために、この地上に生きている すべての人のためにも、こうするのが いちばんいいのだ。 瞬は驚くほど満ち足りた気持ちで、その決意を為すことができたのである。 「さすがは 地上で最も清らかな魂を持ち主と、余が見込んだ者。そなたは、もちろん 余を選ぶと わかっていたぞ」 満悦至極といった体のハーデスの声で、一輝と氷河は我にかえった。 生と死。 地上と冥界。 限りあるものと 永遠に続くもの。 そのどちらが人間にとって より重要で、より価値のあるものなのかは わからない。 だが、今 ここで 瞬をハーデスの手に渡してしまったら、喜ぶのはハーデスだけ。 他のすべての人間が、不幸になるだけだということに、彼等は気付いた。 いずれ、人は皆 冥界の住人になる。 だが、瞬は――瞬はまだ生きているのだ。 「瞬! おまえがハーデスの許に行くことは、この兄が許さん!」 「瞬! そんなことを許したら、俺はマーマに顔向けができなくなるだろう!」 氷河と一輝が、同時に左右から瞬の腕を掴む。 それが、生きている人間の出した答えだった。 非力な人間たちが、神であるハーデスに反抗する。 神を軽んじ 侮る その行為は、ハーデスの中に これ以上ないほど強い怒りを生んだらしい。 「あくまで、余に逆らうか……!」 まるで地中深くから せり上がってくるような低い神の声。 次の瞬間、世界は闇に閉ざされた。 |