世界は闇に閉ざされた――ようだった。
一瞬だけ。
一瞬間だけ世界を覆った闇は、だが、すぐに消えてしまい、次の瞬間には、世界は元の通りに光にあふれていた。
今は冥府の住人となっている母たちの姿は消え、代わりに 別の女性が一人、そこに立っている。
母と呼ぶには 若すぎる少女の姿をした人。
だが、彼女が見た目通りのものであるはずがなく――どうやら 彼女も永遠の命を持つ神の一柱であるらしい。
大人になりきれていない大人を見るような目でハーデスを見やり、少女の姿をした女神は 冥府の王を たしなめた。

「ハーデス。あなたにも母はいるでしょう。母の愛を 自分の望みを叶えるために利用するなんて……。我が子の幸福を願う母を苦しめることは、冥府の王ハーデスでもしてはならないことよ。そんなことは、母のいない私にも わかるのに」
「アテナ……」
冥府の王が、知恵と戦いの女神の名を呟く。
どうやら そうであるらしい。

彼女は、偉大な女神の登場に驚いている人間たちに――というより、なぜ こんなことになるのかが わからず呆然としている人間たちに――短い微笑を投げてから、ハーデスの上に視線を戻した。
「あなたの長年の喧嘩相手ということで、私が代表で ここに来たけれど、あなたのグレーテスト・エクリップスを阻止したのは太陽神。そうすることを、太陽神に命じたのは大神ゼウス。それを許したのは 運命の女神たち。母性を司る女神ヘラ。秩序と掟の女神テミス。その他にも大勢」
アテナが 錚々(そうそう)たる神々の名を 事も無げに羅列する。
有力な神たちの名を出されて、ハーデスは さすがに黙り込んでしまった。

「ハーデス。あなたも わかっているはずよ。冥府の王ハーデスと言えど、世界の(ことわり)を逸脱することはできない。冥府の王だからこそ、できない。冥府の王の一存で そんなことが可能なら、人間たちは皆、あなたの機嫌を取り、あなただけを祀り、人の生の時間を司る他の神々をないがしろにするでしょう。神々がそんなことを許すはずがない。あなたが唯一神だというのなら ともかく、そうではないのだから。そんなことをしたら――神である あなた自ら、世界のルールを破ったら、あなたは すべての神々を敵にまわすことになる。そして、罰を受けるのはあなたの方。それが わからない あなたではないわね?」
若く美しい少女の姿をした女神は、どう見ても 冥府の王であるハーデスを脅していた。
二柱の神の 妙に人間臭い対決に、生きている人間たちは あっけにとられるばかりである。

「しかし、人間の分際で 神に逆らうような思い上がった輩は、神の権威を貶める者たちであろう。罰せられるべきは、余ではなく、身の程知らずの人間たちの方で――であればこそ 余は、瞬を手に入れて、汚れ切った人間世界を粛清しようとしているのだ」
アテナの脅しに屈するまいとするハーデスの反駁は、
「ええ、ええ。あなたが、心も身体も清らかな美少年に 目がないことは よく知っています。でも、こんな やり方で瞬を手に入れても、瞬は、あなたが期待するように あなたを崇拝することはないと思うわよ」
といった調子で、アテナに軽く いなされてしまった。

汚れた人間世界を粛清するために 瞬を手に入れようとしたのか、“汚れた人間世界を粛清する”は 瞬を手に入れるための口実にすぎなかったのか。
そのいずれであったにしても、ハーデスが それ以上 アテナに逆らおうとせずに、その場から姿を消したのは 紛れもない事実だった。

身内の不始末を恥じるように ハーデスの姿の消えた空間を眺めていたアテナが、おそらく 身内の不始末の後始末に取りかかるべく、瞬たちに微笑を向けてくる。
そして 彼女は、その場にいる人間たちに、
「人は、死後の安寧のために生きているわけではないわ。あなた方は 生きて幸福になりなさい」
と明言した。

「アテナ……。でも、僕の母たちは――」
生きている者たちは それでいいかもしれない。
だが 既にハーデスの支配する冥府の住人となっている母たちは、ハーデスによって つらい目に会わされるのではないか。
それが瞬の懸念。
が、アテナは瞬のその不安を すぐに消し去ってくれた。

「心配は無用よ。あなた方のお母様たちは、お母様たち自身の美しい心と愛によって 守られている。ハーデスにも、その事実を変えることはできません。あなた方は、あなた方の お母様たちが望んだ通り、幸福におなりなさい」
そして、彼女は、
「私には 最初から 母というものがなかったのよ。優しく愛情深いお母様がいて、母の愛を確信できている あなた方は 既に誰よりも幸福な人間なのかもしれないわね」
と告げて、瞬たちを羨むような微笑を浮かべ、生きている人間たちの前から 静かに消えていったのだった。






【next】