「氷河がコイ以外の人にマーマ……」
驚きのあまり 日本語の文章構築能力を失った星矢に代わって 会話の続きを引き受けたのは、龍座の聖闘士であるところの紫龍。
「瞬に似ているのなら、相当 可愛い子だな。シベリアで会った子か?」
星矢の驚愕振りが気に障り、その分 驚いた様子を見せない紫龍の株が上がったのか、あるいは 紫龍の話の持っていき方がうまかったのか、氷河は どちらかといえば嬉しそうに――否、むしろ 問わずもがなのことを問うなというかのような顔で――龍座の聖闘士に頷いた。

「もちろん、滅多にいないほど 可愛い子だ。綺麗で優しい手をしていて、俺は その手に幾度も救われ、励まされた。俺が こうして聖闘士になれたのも、あの手があったからだ」
そう語る氷河の眼差しは、まさしく恋する者のそれ。
脳裏に初恋の人の姿を思い浮かべて、うっとりしている人間のそれだった。
何とか熱唱谷からの帰還を果たした星矢が、改めて 恋する氷河の姿の様子に驚き、感心する。

「おまえ、ほんとにマーマ以外でもオッケーな男だったんだ」
「俺をマザコンのように言うな」
「それじゃあ、まるで おまえがマザコンじゃないみたいじゃないか」
「なに?」
初恋の人の許にトリップしているようだった氷河が、現実世界に戻ってきて、星矢を睨みつける。
星矢は慌てて 空笑いを作り、自らの失言を笑いにごまかそうとした。
「いや、まあ、殺生谷のことを根に持って、一輝から最愛の弟を奪ってやろうとか、そんなことを企んでるんじゃなきゃいいんだけどさ」
星矢の懸念は、思いがけない氷河の初恋話で綺麗に霧散した。
だが、瞬は相変わらず 沈んだ様子で、顔を俯かせている。

瞬は氷河と違って、記憶障害の気はない。
そして、氷河が気にしていなくても、だからといって 自分の非や罪をなかったことにできる人間ではない。
そのまま ラウンジを出ていこうとした瞬に、星矢が、
「初恋ねー。瞬、おまえは?」
と尋ねたのは、もちろん 瞬を この場に引き止めるため。
そうして この場を明るく楽しい冗談の場にして〆ないと、瞬が一人で いつまでも この件を引きずり、気に病むことになるだろうと、その事態を案じたからだった。

「え?」
まさか そういう方向に話が飛んでいくことになるとは思っていなかったらしい瞬が、虚を衝かれたような顔になる。
星矢は 委細構わず、話を続けた。
「だから、おまえの初恋の相手は? あ、もしかして、まだか?」

初恋というものは、思い出そうと努めなければ思い出せないものだろうか。
もしかしなくても“まだ”だった星矢には、そのあたりのことが よくわからなかったのだが、瞬はそういう人間だったらしい。
「僕の初恋……?」
独り言のように呟いてから、瞬は 自身の初恋についての情報を自分の記憶の中に探しに出掛けたようだった。
数秒の時間をかけて 何とか見付け出すことができたらしい その情報を、瞬が 仲間たちに開示する。

「そうだね。僕の初恋の人は、誰よりも強くて優しくて……優しい人だったよ」
優しいことで定評のある瞬が、人を“優しい”と評する時、その評価は 瞬の優しさゆえに信用ならない。
となれば、瞬の初恋の人は、優しさより強さの方が際立つ人間だということになる。
そう考えて、星矢は 眉間に2本ほど皺を刻んだ。
「誰より強い――って、兄貴は初恋の相手とは言わないんだぞ」
そのパターンしか考えられないという顔で、クレームをつけた星矢に、
「僕をブラコンみたいに言わないで」
瞬が、認識の訂正を求めてくる。
「違うのかよ?」
自身をマザコンと決めつけられた氷河は 凶悪な目で星矢を睨みつけたが、ブラコンと決めつけられた瞬は、少なからず 傷付いたような目になった。

「ひどい。僕は兄さんを誰より尊敬していて、兄さんが僕の兄さんでいてくれることに 心から感謝しているだけだよ。少なくとも、僕の初恋の人は兄さんじゃない」
今日は驚愕の事実が 次々に白日の下に 現れてくる。
何かにつけて『兄さん、兄さん』だった瞬と、たまに口を開いたと思うと『マーマ、マーマ』だった氷河が、兄以外の人間、母以外の人間に恋をしていた。
仲間たちの驚異的な変化成長振りに、星矢は胸中で、『俺も歳をとるはずだ』と呻いてしまったのである。

「へー。すごいじゃん。アンドロメダ島で知り合った子か? アンドロメダ島って、女の子もいたんだろ? 聖域には おっかない姐さんたちしかいなかったけど、紫龍んとこの春麗といい、一輝んとこの おまえそっくりの美少女といい、その方面では 聖域が いちばん不作だったってことかー」
全く残念そうにではなく、星矢がぼやく。
「ま、ギリシャはシーフードが美味かったし、デザートも充実してたから、文句は ないけどさ」
実に わかりやすい“色気より食い気”。
氷河は1ミリたりとも笑わず、瞬も 屈託のない笑みは見せなかった。






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