「本物ね。5カラットはあるわ。カットは完璧なラウンド・ブリリアントカット。カラーは無色透明、最高ランク。透明度も文句なし。これは いい石よ。2000万……ううん、3000万ってところかしらね」 “不幸中の幸い”は、結局のところ“不幸中の(ささやかな)幸い”でしかない。 その事実を冷酷に瞬に教えてくれたのは蘭子だった。 蘭子の確信に満ちた その言葉。 蘭子は楽しそうだったが、瞬の頬は 彼女の断言に 蒼白になってしまったのである。 そんな高価なものを、たまたま公園で出会った小さな女の子に ポンと与える、見知らぬ“おじちゃん”。 彼を、不遇な子供に援助の手を差しのべる幸福の王子だったのだろうと思うことは、瞬にはできなかった。 ナターシャは困窮した家の子供には見えないし、実際、彼女は あの公園にいた子供たちの中で最も身綺麗な少女だったと思う。 となれば、考えられるのは、そういう子供の気を引こうとした変質者のしわざ。 あるいは、盗難品を 身許の確かそうな子供に一時的に預けて、あとで取り戻すことを考えている窃盗犯の類。 なにしろ尋常では あり得ないことなので、突拍子のないことしか思いつけない。 とにかく これは尋常のことではなかった。 「ナターシャちゃん、こんなもの、誰からもらったの? もしかして、その人、ナターシャちゃんのこと、『可愛いねー』なんて言ってなかった?」 蘭子も、まず、幼女の気を引こうとする変質者の可能性を疑ったらしい。 ナターシャは、だが、“寝坊して出遅れたおじちゃん”に そんな危険の空気は全く感じなかったようだった。 「知らないおじちゃん。もらったんじゃないよ。キャンディと交換したんだダヨ。あのおじちゃんが そう言ってた。『あげるんじゃない。交換だよ』って。大切にしてねって。おうちでは、ママに預かってもらうといいよって言ってたヨ」 「でもね、ナターシャちゃん。これはとっても高価なものなの。小さな お家を一軒 建てられるくらい。もし、そのおじさんが、本物のダイヤだと知らなくて、ナターシャちゃんにくれたのだったら、あとで気付いて 困るかもしれないし、無理矢理 取り戻しに来るかもしれない」 瞬が恐れるのは、何よりも ナターシャの身に危険が及ぶこと。 その事態を回避できるなら、瞬は、こんな出どころの知れないものは、元の持ち主に返却するなり、拾得物として しかるべき機関に管理を委ねることにしたかった。 後者の場合は、その事実を出遅れたおじちゃんに知ってもらわなければ 意味がないので、もちろん前者の方が望ましい。 「ナターシャのおうちは、パパとマーマのおうちダヨ。ナターシャ、他のおうちはイラナイヨ」 「そうでしょう?」 そうと意識していたわけではなかったが、“家”の例えがよかったらしい。 『小さな お家を一軒』と言わず、『ナターシャちゃんのお洋服を千着』と言っていたら、ナターシャは、ナターシャは 千着のお洋服より ダイヤのペンダントの方がいいと言い張っていたかもしれない。 とりあえず、ナターシャが ペンダントを返したくないと言い張ることはなさそうだったので、瞬は そのことについてだけは心を安んじることができたのである。 その時だった。 「あら」 蘭子が、何かに驚いたような短い(ドスの利いた)声を洩らしたのは。 「蘭子さん、どうか?」 視線を、ナターシャから蘭子に戻した瞬の手に、蘭子が問題のペンダントを返してくる。 ペンダントトップだけを瞬の手の上に置き、彼女は、ペンダントトップに つながっている紐を空中に吊り上げた。 「この紐、市販の紐をそのまま使ってるものじゃないわ。名前が刺繍されてる」 「名前? もしかして、元の持ち主の?」 僅かな光明が見えてきた。 ――と思った瞬の目に 実際に見えたのは、だが、希望の光ではなく、更なる謎だった。 蘭子が瞬に示した紐に刺繍されていた名前は、瞬には 極めて不可思議で、慣れ親しんだ名。 そこには『捺搭沙 和 瞬』と、ナターシャと瞬の名が 漢字で(ナターシャは当て字で)刺繍されていたのだ。 幅5ミリの綿製の紐に 漢字で『瞬』と刺繍できるのは、並の技ではない。 ミシンの刺繍機能では まず不可能だが、人が手で刺繍したのなら、それは相当 卓越した技術を持った人間の技である。 その上、刺繍されている名が『捺搭沙 和 瞬』――『ナターシャと瞬』。 『捺搭沙』だけ、『瞬』だけなら、同じ名の他人を指しているのだと思うこともできなくはないが、『捺搭沙 和 瞬』。 これは どう考えても、氷河の娘と 彼女のマーマを指している。 では、寝坊して出遅れた おじちゃんは、ナターシャをナターシャと知った上で、彼女に3000万もするダイヤを渡してきた――ということになる。 謎のおじちゃんは、たまたま公園で会ったナターシャに、思いつきで このペンダントをくれたのではない。 最初からナターシャに渡すつもりで、もしかしたら出遅れたおじちゃんは ちびっこ広場にナターシャが来るのを待っていたのかもしれない――否、待っていたのだ。 「ナターシャちゃん。その おじちゃんのこと、もう一度 よく思い出してくれる? どんな人だった? 若い人? 背は高かった? どんなお洋服を着てた?」 これは、ダイヤを拾得物として交番に届けるだけでは済みそうにない。 寝坊して出遅れたおじちゃんの正体を突きとめなければ、事態は解明されず、解決もされない。 瞬は、テーブル席で 氷河特製のオレンジヨーグルトを飲んでいるナターシャに、これまでになく真剣な目をして尋ねたのである。 小さな二つの手で握りしめるように持っていたグラスをテーブルの上に戻し、ナターシャは小さく首をかしげた。 「ンートネ。髪は黒くて、目も黒かったヨ。パパより おじちゃんで、パパより背が低くて、パパみたいに かっこよくなくて、白いシャツを着てて、紺色のパンツを穿いてた」 それでは あまりにも、当てはまる人が多すぎる。 パパを基準にしたナターシャの説明では、瞬には“おじちゃん”のイメージを思い描くことが全くできなかった。 が、ナターシャは ただのファザコンでも ただの面食いでもない。 パパみたいに 恰好よくないからといって、それだけで注意を払わないというようなことは、ナターシャはしないのだ。 「あとね。ペンダントをナターシャの首に掛けてくれた時、手の平の真ん中にほくろがあるのが見えたヨ。んーと、節分の時の お豆さんくらいの大きさ」 「ナターシャちゃん、さすがの観察眼ね!」 蘭子が感心して、ナターシャの頭を 手荒く撫でる(当人は優しく撫でたつもりらしい)。 少し乱れたナターシャの髪を さりげなく整えながら、瞬は短い溜め息を一つ洩らした。 「でも、そんな手掛かりだけでは――」 「そんなことはない。手の平の真ん中に 大豆大のほくろというのは、かなり珍しいぞ」 ナターシャの お手柄を無にしたくない氷河に、 「そうね。3000万のダイヤを ポンとくれるんだから、庶民じゃないわよ。かなりの富裕層か、アブナイ人。そして、手の平のほくろ。それだけ情報があれば、対象はかなり 絞れるわよ」 蘭子が同意する。 「アブナイ人って……」 蘭子の推察は 到底 瞬の心を安んじさせるものではなかったのだが、彼女は その情報だけで、“寝坊して出遅れたおじちゃん”を探し出せると踏んだらしい。 瞬には 結局、2、3日 時間をくれという蘭子に 頼る以外の道がなかった。 |