ナターシャから 手の平のほくろの話を聞いた時、蘭子には 既に当たりがついていたのだろう。 “寝坊して出遅れたおじちゃん”の正体が判明したのは、それから2、3日後ではなく、翌日だった。 「上海にね、大熊猫幇っていう、大きな黒社会の組織があるの。ナターシャちゃんにペンダントをくれたのは、そこの幹部の一人。手の平にあるほくろにちなんで、“福つかみの周”って呼ばれてる男よ。日本に来ているとは知らなかったけど」 蘭子が、2、3日の猶予を瞬たちに求めたのは、“寝坊して出遅れたおじちゃん”を探すためではなく、“福つかみの周”が日本に滞在していることを確認するためだったらしい。 蘭子の手土産の肉まんは、その確認に出向いた際に ついで買いしてきたもののようだった。 「黒社会……って、チャイニーズ・マフィアということですか? そんな物騒な……」 案じ顔になった瞬の隣りで、氷河が顔には出さずに薄く笑う。 チャイニーズ・マフィアごときを アテナの聖闘士が“物騒”と表することが、氷河には冗談に思えたのだろうが、瞬は氷河の薄笑いを無視した。 今 瞬は、アテナの聖闘士ではなく ナターシャの保護者として、ここにいるのだ。 「氷河。ナターシャちゃんが ちゃんと お昼寝してるかどうか、見てきて。それから、蘭子さんに お茶を。いただいたお土産は蒸し器で温め直して――」 「肉まんはいいわよ。アタシの分は、別に確保してあるから。あとでナターシャちゃんと一緒に食べてちょうだい」 用事を言いつけて氷河(の笑い)を追い払おうとした瞬の目論見は、蘭子の遠慮で 中途半端なものになってしまった。 ナターシャの熟睡の確認と お茶の準備を2分で済ませて、氷河がリビングルームに戻ってくる。 氷出しの緑茶を、蘭子は一気に飲み干した。 「大熊猫幇は、上海では最大規模の組織でね、最近、香港を拠点にしてる烏龍幇っていう別組織と抗争中らしいの。もちろん、大陸でよ。その抗争が いよいよ激化してきたんで、組織の大ボスが、家族を抗争に巻き込まないために、10歳以下の子供――孫や曾孫、それから高齢の母親を 日本に避難させたわけ。福つかみの周は、武闘派じゃなく頭脳派だから、大ボスの親族のボディガードとして、日本に来たんでしょうね。日本なら、武闘派でなくても、銃さえ持ってれば 何とでもなるから」 「……」 銃など豆鉄砲レベルの武器でしかないアテナの聖闘士にも、それは十分に物騒な話だった。 中国黒社会組織の幹部の一人。 そんな人物が なぜ、光が丘公園の ちびっこ広場にいるのだ。 「チャイニーズ・マフィアって、新宿とか横浜あたりにいるものなんじゃないんですか?」 チャイニーズ・マフィアなど恐るるに足りないからこそ、瞬はそういった方面には素人である。 瞬の素人丸出しの言葉に、蘭子は 筋肉で盛り上がった肩をすくめた。 「家族を ドンパチから避けるために、わざわざ日本までやってきたのに、そんなメジャーなとこにいたら 本末転倒。抗争が日本に飛び火するだけじゃないの。平和な練馬区だから、家族を避難させる場所としては最適なのよ」 「それは そうかもしれませんけど……10歳以下の子供……?」 「心当たりがあるの? 今時、中国人なんて、日本中 至るところにいるから、瞬ちゃんの病院にも 大勢 行くでしょうけど、上海の大熊猫幇の大ボスの親族の集団疎開なら、多分 医者も大陸から連れてきてると思うわよ?」 「あ、ええ……」 瞬の心当たりは、心当たりというほどのものではなかった。 ただ 瞬は、1週間ほど前、奇妙な7、8歳の子供に出会っていたのだ。 「先週の月曜日、病院から帰る途中に、僕、ちょっと変わった子に会ったんです。夕方5時くらいかな。雨が降りそうで、5時とは思えないくらい暗くて――光が丘公園を突っ切った時、一人きりで、ベンチにぼんやりと座ってる男の子がいて……。その子、靴を履いていなかったんですよ。近くに大人の姿もなくて、様子がおかしかったから、僕、声を掛けたんです。でも、何も言わない。名前を聞いても、誰かと一緒に来たのかって訊いても、唇を引き結んで、うんとも すんとも言わなかった。それで、僕、もしかしたら虐待を受けている子供なんじゃないかと思って――そういう子って、口をきかないことが多いんです。どんなに ひどい目に会っても 親の悪口を言いたくない子や、よその人に何か言うと、もっと ひどい目に会うから黙っている子。パターンは いろいろあるんですが……。僕、その子を 交番か公園の管理事務所に連れていこうと思ったんです。でも、その時に、それまで一言も口をきいてくれなかった子の おなかが自己主張を始めたんですよ。それは見事に 高らかに ぐうーっと」 「あらま」 「身体が弱ってるようではなかったんですけど、おなかは空かせているようだったから、公園のパン屋さんで パンとミルクを買ってきて、食べさせてあげたんです。その子、ものすごい勢いで 野菜サンドとメロンパンを平らげて、これなら 口をきいてくれるかと思ったんですけど……」 「『ごちそうさま』も『ありがとう』も言わなかったの? それは、周囲の大人の躾がなっていないわね」 こういう時、蘭子は、『親の躾がなっていない』とは言わない。 子供が必ず“親”といられるものではないということを、彼女は知っているのだ。 おそらく そういう子供を彼女は幾人も見てきたのだろう。 「言おうとしたのかもしれません。でも、その前に――そこに、40歳前後の男の人が駆けてきて、『バーバー』とか『ブーブー』とか、聞き慣れない言葉で その子に呼びかけて……。そうしたら、それまで口もきかず、笑いもせずにいた子が、ほっとしたような顔になって、その男性に手を振ったんです。こういう言い方は失礼ですけど、僕より ずっと目付きが鋭くて、強面の人だったのに。おかげで その人が あの子の身内だということは確認できましたけど、その人、男の子を抱きかかえて、僕を牽制するように睨んできたんです。でも、男の子に何か耳打ちされたら、急に態度が変わって、異様に腰が低くなって、僕に礼を言ってきたんです」 「中国語で?」 「いいえ、日本語でした。外国訛りの全くない日本語。だから、僕、その時には、一般人にしては隙がなさすぎることしか、気にならなかったんです。その男性は、ネイティブとしか思えない日本語を話してましたし、男の子は 最初から最後まで、僕には直接 話かけてくれなかった。でも、あの男の子を見付けた時、彼が口にした『バーバー』とか『ブーブー』とかいうあの言葉、今にして思えば、『バオバオ』って呼んでいたんだ――って」 「宝宝――中国語で『お坊ちゃん』ね」 「ええ」 蘭子は、それで合点がいったようだった。 「まあ、6、7歳の、外を走りまわりたい年頃の男の子を 平和な練馬区のアジトの中に閉じ込めておくなんて、土台 無理な話よね」 蘭子が、『これは推測にすぎないけど』と前置きをしたのは、彼女が 自分の推測に 確信を抱いていたからだったろう。 “寝坊して出遅れたおじちゃん”の正体を探る際に、彼女は、大熊猫幇の大ボスと その身辺のあれこれについて、様々な情報を仕入れていたに違いない。 「多分、瞬ちゃんが公園でパンを食べさせてあげた子供というのが、上海大熊猫幇の大ボスの孫か曾孫だったんでしょうね。ずっと どこかに隠れているように言われて、外に出られず 隠れ家に閉じこもっているのに我慢ができなくなって、こっそり外に抜け出した。だから、靴も履かずに公園にいた。口をきがなかったのは、日本語がわからないせいもあったでしょうけど、知らない人と口をきくことを禁じらせていたんでしょうね。で、あのダイヤのペンダントは、メロンパンのお礼。あの手の組織の人間は、人に 借りを作るのをすごく嫌うから。瞬ちゃんは、一応 カタギだし」 ここで、蘭子に『一応 カタギとは どういうことなのか』と突っ込みを入れると、藪から蛇を誘い出すことになる。 瞬は 困惑顔を作り、それを蘭子に提供した。 「彼等には、瞬ちゃんの身許を調べるなんて簡単。かといって、正面から正々堂々と礼に行けば、カタギの瞬ちゃんに迷惑がかかる。だから、ナターシャちゃんに 玩具のペンダントをあげるっていう形で、お礼をしたんでしょうね」 「180円のメロンパンに、こんな お礼をされる方が、よっぽど迷惑です……!」 「でも、突っ返すと、それはそれで 相手を怒らせることになるかもしれないわよ」 「そんな……」 カタギでない人間の義理堅さの、何と迷惑なこと。 やはり 反社会的勢力は 社会から一掃すべきだと、瞬は 心の底から思ったのである。 「今の世の中、親切なのも考えものねー」 「メロンパンの礼としては不適当だが、瞬の親切への礼というのなら 法外でもないだろう。紙粘土でなく ちゃんとした宝飾品として、鑑定書付きでくれれば、瞬なら 出どころを疑われることなく換金できたのに、間違った方向に気をまわしすぎだ」 氷河は、ナターシャの服が千着 買えるなら、金の出どころはどうでもいいと思っているのだろう。 到底 カタギらしくない氷河のコメントに、瞬はがっくりと肩を落とした。 |