俺が その日、カラダは元気そのものだっていうのに 光が丘病院に行ったのは……。 なんだろう。 いうなれば未練だったかもしれない。逆に、未練を振り切るためだったのかもしれない。 医者に頼るしかない病人としてじゃなく、スパイとして、瞬先生の動向を観察すれば、瞬先生の欠点を見付けられるかもしれないっていう、さもしい期待。 でも、そんなものは見付からなければいいっていう、矛盾した願い。 潜り込んだはいいけど、俺は そもそも瞬先生が どこにいるのかも知らなくて、広い院内で迷子になっちまったんだ。 光が丘病院って、やたらと広いんだよ。 敷地内に、いろんな建物や施設があるしさ。 診療時間は終わってて、院内の廊下を歩いてる人間は少ない。 受付時刻ぎりぎりに駆け込んだんだろう外来患者と入院患者、医師と看護師くらいかな。 で、どうやら 俺は、いつのまにか、関係者以外 立ち入り禁止区域に入り込んでしまってたらしい。 病院なんて、何年も来てなかったから、勝手がわからなかったんだ。 病人じゃないのが わかるのか、俺を捕まえた警備員は、診察に来て迷ったんだっていう俺の言葉を、天から信じてくれなかった。 嘘なんだから、当然っちゃ当然なんだけどさ。 病院ってのは、たくさんの患者の機微情報の宝庫だ。 つい最近、個人情報保護法が改正になって 機微情報のガイドラインが厳しくなったとかで、病院は神経をとがらせているんだとか。 「医師志望で、病院の中を見学していいって、瞬先生に言われたんです」 苦し紛れに そう言ったら、警備員のおっさんの態度は ますます頑なになった。 「瞬先生のお名前を出すところが怪しい。瞬先生目当てに、病人でもないのに院内に入り込む不心得者もいるからな」 だと。 「一応、瞬先生に確認はしてみるが」 っていう おっさんのセリフを聞いて、俺は真っ青になった。 瞬先生に迷惑はかけたくないから、それだけはやめてくれって頼んだら、警備のおっさんは ますます疑わしげな目を俺に向けてきてさ、それで どっかに電話をかけて、ほんとに警備室に瞬先生を呼びつけやがった。 このことが学校に知れたら 推薦入学どころじゃなくなるって、俺は がくがく震えてたんだ。 でも、それから5分後くらいに警備室に飛び込んできた瞬先生は、開口一番、 「セキュリティの関係で、入っちゃいけないフロアもあるって言ったでしょう!」 って、俺を叱ってくれた。 それで、 「すみません。僕がちゃんと言っておかなかったせいで」 って、警備員のおっさんに謝ってくれた。 事情を察した瞬先生が 口裏を合わせてくれたんだってことに、俺は しばらく気付かずにいた。 警備員のおっさんは、 「あ、いや。これも職務の一環ですので。わざわざ ご足労願ってしまって、申し訳ありません」 とか、妙に嬉しそうな顔で 瞬先生に言い訳してる。 瞬先生に、 「こちらこそ、お仕事を増やしてしまって すみません。いつも どうもありがとうございます」 とか言われて デレてるところを見ると、警備員のおっさんは、前途ある青少年の未来を つぶしたかったわけじゃなく、瞬先生に会いたかっただけぽかった。 いい歳して 何なんだよ、このおっさんは! 俺は、腹が立つやら安堵するやら。 自分の気持ちを どこに持っていけばいいのかが わからなくて、もうぐちゃぐちゃだ。 でも、おっさんを なじるわけにもいかないから、ひたすら顔を強張らせて、神妙な態度を装って、瞬先生と一緒に警備室を出たんだ。 廊下に出ても――長い廊下を歩いてる間、瞬先生は俺に何も言わなかった。 沈黙が気まずい。 さっきの口裏合わせから察するに、学校や親に連絡することはしないでいてくれそうだけど、瞬先生も、立場上、俺を叱らないわけにはいかないだろうし。 俺も 叱られる覚悟は決めてたんだけど、『部外者立ち入り禁止』のプレートが貼られた階段を下りかけたところで、瞬先生に、 「お名前、伺っていませんでした」 って言われた時には、さすがに心臓が撥ね上がった。 名前を名乗るってことは、俺の個人情報を開示するってことで、それを取っ掛かりに学校名や自宅住所、親のことまで知られちまうかもしれないってことで、つまり 俺の弱みを握られるってことで、瞬先生は やっぱり学校に通報するつもりでいるってこと。 俺は いっそ、適当な偽名でも名乗って ごまかそうかと思ったんだけど、それが ばれたら完全に悪質な故意犯として通報もんだよなーとか、悪い方向にばっかり想像力が働いて、頭の中が ごちゃごちゃの ぐちゃぐちゃ。 俺の葛藤(なんて高尚なもんじゃないけど)を見透かしたのか、瞬先生は、 「名乗りたくないのなら、名乗らなくていいですよ。何といって呼びかければいいのか わからなかっただけですから」 って。 瞬先生は 俺の弱みを握ったり(握って どうするんだって話だよな)、親や学校に通報するために 俺の名を訊いたわけじゃなかったらしい。 我ながら せこい男だと思うけど、瞬先生に そのつもりがないってわかった途端に、偽名を使おうなんて考えた自分を、俺は深く反省した。 そして、ちゃんと本名を名乗ろうとしたんだ。 ほんとだぞ。 名乗る前に、階段の下の方から、 「ハジメ! あんた、こんなとこで何してんのよ!」 って、初子の声が響いてきて、 「しかも、瞬先生と一緒に!」 って、世紀の大悪党を見付けたみたいな目を向けてくるもんだから、俺は 俺の名を(自分で)名乗り損ねた。 名乗り損ねただけだったら、まだ よかったんだけどさ。 初子の『ハジメ!』に驚いて、階段を踏み外して、俺は そのまま下に転がり落ちそうになったんだ。 いや、実際、落ちた。 下まで転がり落ちなかっただけで。 俺が実際に落ちたのは、階段2、3段分くらいかな。 バランスを崩して倒れる前に、俺の2、3段下にいた瞬先生が 俺の身体を支えてくれたんだ。 瞬先生は、俺より4、5センチは背が低いし、体重だって10キロ以上、下手すると20キロ近く少ない。 それこそ 女の人に見間違われても 全然不思議じゃないくらい華奢で――腕だって、俺の3分の2あるかないかってくらい細いのに、すげー力。 倒れる俺を軽々と受け止めて、瞬先生自身は、踏ん張る足場はないも同然な階段の途中で びくともしない。 それより、このタイミングで後ろを振り返って、俺の身体をキャッチできるって、どういう反射神経、どういう運動能力だよ。 びっくりしすぎて 自力で態勢を立て直せずにいる俺を ちゃんと立たせて、瞬先生は 申し訳なさそうな顔で、 「大丈夫ですか? すみません。階段で話しかけたりして」 って、俺に謝ってきた。 いや、俺が足を踏み外したのは瞬先生じゃなく 初子のせいだよ。 瞬先生は階段を下まで下りて、そこで 改めて口を開いた。 「斉藤さんとお友だちだったなんて。二人で医師志望なんですね」 「え」 何なんだよ。 初子も俺と同じ嘘をついて、瞬先生に近付いてたのか? ったく、おまえは法科志望だろうが! ――とは、もちろん 声には出さない。 「医学部は無理そうだから、薬剤師か看護師に方向転換しようかなって思い始めてるところなんです」 それが おまえの言い訳か。 この優しい瞬先生の前で 平気で嘘をつけるなんて、おまえのツラの顔は どんだけ厚いんだ。 と、ついさっきまでの自分を棚に上げて、俺は思った。 そんな俺たちの前で、瞬先生は どこまでも善意の人でさ。 「いいですね。幼馴染み同士で、同じ道を志してるのって。励みになりますし、何かあった時には助け合えますし、側にいてくれるだけで頼りにもなるし」 なんてことを、にこにこしながら言ってくれた。 瞬先生は あの金髪威圧男と親友同士だって話だけど、二人は 子供の頃からの付き合いなのかな。 だから、助け合うのは当然のことだと思ってて、あの女の子のマーマ役も 当たり前の顔して引き受けたのかな。 金髪威圧男が 瞬先生に近付く男に焼きもちを焼く気持ち、今なら 俺にもわかる。 こんな いい人、誰にも取られたくないし――大事だよな。うん。 こんな優しい いい人に、厚いツラの皮をさらして、 「瞬先生、何かスポーツやってるんですか? すごい反射神経!」 なんてこと訊いて、自分の嘘をごまかそうとする初子は ほんとに大物だよ。 でも、つまり それは、初子が それくらい必死だってこと。 瞬先生に嫌われないために、初子は一生懸命なんだ。 アプローチの仕方は完全に間違ってると思うけど、初子の厚いツラの皮が 瞬先生への恋心ゆえっていうのなら、ある意味、初子も健気だ。 「特にスポーツをしてるわけではないんです。でも、医者は体力が肝心ですから、斉藤さんたちも身体は鍛えておいた方がいいですよ。もちろん、健康がいちばん大事」 嘘つきの幼馴染み同士の俺と初子を微笑ましげに見詰めながら、瞬先生が言う。 そんな瞬先生に どきまぎして、 「わ……私、瞬先生のおかげで 体調の方は もう万全なんですけど、ここの売店で売ってるゴーヤチップスに 病みつきになっちゃって、通い詰めなんですー」 なんて阿呆なこと言ってる初子の馬鹿さ加減が 哀れっていうか、涙ぐましいっていうか、可愛いっていうか。 瞬先生みたいに綺麗で優しくて いい人の前じゃ、成績がよくて、リーダーシップがあって、教師の覚えがめでたい きかん気で、我が強くて、生意気で 色気なしの初子も、いつもの初子じゃいられないってことか。 そりゃ、そうだよ。 瞬先生は、そんな初子に呆れたふうもなく にこにこしてて。 忙しいんだろうにさ。 瞬先生、いい人すぎるよ。 優しくて綺麗で 頭もよくて、すごく意外だけど身体も頑健。 大勢の患者さんたちが瞬先生を頼ってて、当然 経済力もあって。 恋敵がいい人すぎるって、途轍もなく不幸だ。 憎むことも恨むこともできなくて、憎むどころか、俺まで瞬先生を好きになりかけてる。 |