日が傾いて、やっと過ごしやすい気温になってきたのに、子供たちは家に帰る時刻。 子供たちの歓声が消えた公園には 夕涼みを楽しむために 外に出てきた老人の姿が増えてきた。 あまり大きくない空知氏の声を掻き消さないようにと気を遣ったのか、蝉の鳴き声が小さくなる。 「……7月に入った頃から、おそらく区外から、数人の中学生のグループが、この公園まで 自転車でやってくるようになったんです。素行がいいとは お世辞にも言えない、反抗的で攻撃的な 刺々しい空気を身辺に漂わせた中学生たちです。2週間ほど前、いつも小犬を散歩に連れてくる小学生の男の子が、その中学生たちに目をつけられて、小犬を奪われそうになった。情けない話ですが、私は あの子を助けるために動くことができなかった。小犬が中学生たちに蹴飛ばされて悲鳴を上げ、飼い主の男の子が 恐くて声も出せずにいる様が“見えて”いたのに、私は、誰かが 通りかかって、あの子を救ってくれるのを待つことしかできなかったんです」 彼が期待していたのは、大人の、できれば 頑健な身体と 正義感を有した男性だったろう。 だが、彼の期待に反して、そこにやってきたのは、小さな女の子だった――正義感だけを有した、小さな女の子だった。 その女の子は、芝生広場の片隅で何が起きているのかに気付き、突然、 『パパーっ!』 と叫んだのだそうだった。 彼女が駆けてきた遊歩道の奥の方を振り返り、 『パパ、マーマ、来て! 星矢お兄ちゃん、紫龍おじちゃん、コッチダヨー!』 と。 「彼女の後ろからパパが来るのだと、私は思ったんです。マーマと お兄ちゃんや おじちゃんや――とにかく、複数の大人が来てくれるのだと。ですが、なかなか その気配が感じられないので、奇異に思いました。私は、人工の障害物がなければ、半径50メートル以内なら、大抵の人の気配は察知できるんです。あれは、ナターシャちゃんが いじめっ子を追い払うために機転を利かせただけだったんですね。あの中学生たちは、悪知恵が働くのか、そういう場面に慣れているのか、素早く 二手に分かれて その場から逃げ出した」 ナターシャは 小犬を奪われそうになっていた男の子の側に駆け寄り、 『今のうちに逃げてっ! パパは来ないの。ナターシャ、ヨシノと二人で来てるノ』 と言って、彼を急かした。 強い大人の加勢はないと悟った男の子は、 「ありがとう!」 と ナターシャに礼を言って、小犬を抱きかかえて逃げ去り、ナターシャも やってきた方に駆け戻った。 離れたところから様子を窺っていたのだろう中学生たちは、10分ほどの時間が経ってから、芝生広場に戻ってきて、自分たちが 小さな女の子に一杯食わされたことに腹を立て、しばらく 口汚く毒づき合っていたらしい。 それから1週間後、同じ場所で、全く同じことが起きた。 ナターシャは同じ手を使った。 だが、中学生たちは 今度はナターシャの術中に落ちなかった。 中学生たちは、 『二度も 同じ手に引っ掛かるかよ!』 『パパは来ないんだろ?』 『おまえの親父の一人や二人、ほんとに来ても 恐くないけどな。こっちは、五人もいるんだ』 そう せせら笑いながら、彼等は ナターシャと小犬を抱きかかえた小学生の男の子を取り囲んだ。 『ナターシャのパパは正義の味方だもん! ナターシャのパパは、悪者が五人いたって十人いたって、負けないヨ!」 ナターシャは、怯まなかった。 泣き出すこともしなかった。 逃げ出そうともしなかった。 もちろん、『ゴメンナサイ、モウシマセン』など論外である。 悪者に 許しを乞うことなど できるわけがない。 「中途半端に悪知恵のついた子供というものは、実に冷酷だ。そんなナターシャちゃんに……ナターシャちゃんの気丈が気に入らなかったんでしょう。中学生の一人が、小犬を連れた男の子に、『おまえは見逃してやる。さっさと行け』と言ったんです」 『大人なんか呼んできたら、どうなるか わかってるだろうな? おまえも その犬も ぎたぎただ』 意地悪く笑う中学生に脅された男の子は、ナターシャを見て、ためらわなかったわけではないらしいのだが、結局 小犬を連れて逃げていってしまったのだそうだった。 「ナターシャちゃんは、それまでは 気丈に振舞っていましたよ。自分よりずっと身体の大きい中学生たちに 取り囲まれても、泣くまいとしていた。ですが、その小犬を連れた男の子が、ナターシャちゃんを 一人 その場に残して、自分だけ 逃げていくのを見て、呆然として――急に身体から力が抜けてしまったようでした。当然です。あんなに小さな女の子が、懸命に庇ってやった人に見捨てられたんだ」 そう語った空知氏の身体からも、力が抜けてしまったようだった。 彼の目には、その時の光景が 今も映っているのだろうか。 彼は つらそうに唇を震わせた。 「私には、何を言う権利もありません。誰を責めることも批判することもできない。ナターシャちゃんたちのやりとりが聞こえていたのに、私は 掛けていたベンチから立ち上がることができなかった」 「……」 それは仕方のないことだと言っても、空知氏の心は慰められないだろう。 そんな言葉は、かえって彼を傷付けることになる。 瞬は無言でいるしかなかった。 「中学生たちは足を引っ掛けて、ナターシャちゃんを転ばせて、意地悪そうな笑い声をあげて――そこから先は、お二人も ご存じでしょう。お二人が そこに いらして、どういう手を使ったのか、五人いた中学生たちは一瞬で、その場にひっくり返ってしまった。私には お二人が 彼等に触れたようにも思えなかったのですが……」 それは、瞬も憶えていた。 まさか その場面を“見て”いる人がいるとは思わず、ナターシャを取り囲んでいる中学生たちの足元の空気を乱し、彼等を立っていられなくした。 これ以上 手荒なことをして 怪我をさせるわけにもいかないと思いながら、瞬は ナターシャの許に駆け寄っていったのだが、幸い(?)よろよろと立ち上がった中学生たちは、氷河に睨まれると震えあがって、その場から逃げていってくれたのだ。 「何だ、あのガキ共は」 「ナターシャちゃん、大丈夫?」 瞬がナターシャを抱き上げると、ナターシャは瞬の首にしがみつき、 「ウン。ナターシャは……ナターシャは 平気ダヨ。ナターシャは あんなの ちっとも恐くないヨ!」 怯えているようには聞こえない声で――むしろ 自分を奮い立たせるように、ナターシャは彼女のパパとマーマに言い募った。 だから 瞬は――氷河も――ナターシャの言葉を疑わなかったのだ。 『ナターシャは あんなの ちっとも恐くないヨ!』 力強く、断固としたナターシャの言葉を。 「ナターシャちゃんが恐がっていないことは、私にもわかりました。ナターシャちゃんは 恐がってなどいなかった。ナターシャちゃんは悲しかったんだ。あの小犬連れの小学生に見捨てられたことが――裏切られたことが……」 そういうことだったのだ。 ナターシャは、悪者の力に屈することはなかったのに、非力な人間の弱さに衝撃を受け、打ちのめされてしまったのだ。 「申し訳ありません。すべて 見えていたのに、私には 何もできなかった。いいえ、何もしなかった。私は、我が身より ナターシャちゃんの心を守ることを考えるべきだった。たとえ 力及ばずとも、私がナターシャちゃんを守ろうとしてさえいれば、ナターシャちゃんの心は 少しは救われていたかもしれない。私は あの中学生たちに暴力を振るわれるのが恐かったんです……」 それは謝罪するようなことではない。 障害の有無も関係なく――それは ごく普通の振舞いである。 空知氏でなくても――100人の人間がいれば、99人までが 空知氏と同様に振舞うだろう。 それは“普通”のこと。 そして、“普通”とは、“ほぼ 非力”ということなのだ。 「あの小犬連れの男の子も、あれ以来、この遊歩道を通らないんです。最初に中学生に絡まれた時には、その後も この遊歩道を散歩コースにしていたのに、ナターシャちゃんを見捨ててからは、一度も この道を来ない……」 それが“普通”。そして、“ほぼ 非力”。 非力な人間が 良心を持ち、罪悪感を抱く能力を備えているということは、ひどく切なく悲しいことだと、瞬は思った。 「いいえ。ありがとうございます。空知さんの ご対応は 適切なものです。娘のために ご無理をなさって、もし 空知さんが お怪我をするようなことがあったら、娘は もっと傷付いていました。きっと、自分の正義感を貫いたことを後悔した」 それこそが最悪の事態。 それでは あまりに悲しすぎる。 氷河は――氷河も――空知氏の告白を聞いても、ナターシャを守るために立ち上がることをしなかった空知氏に憤りの気持ちを抱くことはなかったようだった。 それは つまり、彼と彼の愛娘にとって、空知氏は悪者ではない――ということである。 「ご心配くださって ありがとうございます。もしかして、空知さんは そのことを伝えるために、ここでずっと僕たちが来るのを待っていてくださったのでしょうか?」 「……私は待つことしかできない。一度だけ、交番に ナターシャちゃんの家や ご両親を知らないかと尋ねにいったのですが、そういった個人情報に類することは 知っていても教えるわけにはいかないと言われ――結局 私は何もしなかったようなものだ」 事件や事故が起きたわけではないのだから、交番の警察官も何もできなかったのだろう。 しかし、おそらく、空知氏が交番に出向いてくれたおかげで、ナターシャの保護者を探している人物がいるという情報が 蘭子にまで届くことになったのだ。 彼は決して、何もしなかったわけではない。 「空知さんの お気持ちに感謝します。娘を立ち直らせるのは、僕たちの務めです」 必ず ナターシャを もう一度 この公園を楽しめる少女に戻すことを約束して、瞬と氷河は、案じ顔の空知氏と別れたのだった。 |