彼が他人の思考を読めるようになったのは、中学に上がって まもなくのことだったらしい。 きっかけは 中学校で始まったいじめだったと、彼は瞬たちに告白してきた。 いじめが始まった原因は わからなかった(と、彼は言った)が、ともかく、彼はクラス内で いじめのターゲットにされてしまったのだ。 人の心を読めるようになれば、いじめを避けることができるのに――と、中学生だった彼は考えた。 自分をいじめる者たちの考えが読めたらいいと強く願い、実際に読もうとしたら、読めてしまった。 いじめっこの考えが読めるようになると、いじめられないためには どうすればいいのかがわかり、彼は その通りにした。 「あいつ等は、ただ自分たちの むしゃくしゃした気分を ぶつける対象を欲していただけだったんだ。いじめられないためには、いじめっこたちの虫のいどころが悪い時に、奴等の目の前にいなければいい。いじめが始まる気配を感じたら、巧みに そのタイミングを外す。それが数回 続いたら、いじめのターゲットは 俺より間の悪い別のクラスメイトに移っていった」 それで問題は解決したように言う挙動不審客に、瞬は(瞬だけではなかったろうが)どうにも釈然としなかったのである。 もちろん悪いのは級友をいじめる者たちであるし、十数年も前の出来事を今更 どうすることもできないので、その不快感を、瞬は あえて言葉にはしなかったが。 彼は、大学卒業後は国税専門官採用試験に合格し、東京国税局に入局した。 その査察部実施部門――いわゆるマルサ――に配属になってからは、持てる力を有効利用して多大な成果を上げているらしい。 相手の考えていること、隠そうとしていることが瞬時に読めてしまうのだ。 どれほど狡猾で悪質な脱税者も、彼の目から逃れることはできない。 それは、彼にとって非常に有益な力だった。 そして、彼は、自分は特に選ばれた優れた人間なのだと思うようになっていったらしい。 だが、一方で、その力は、彼に大きな弊害をもたらした。 その力があるせいで、彼は 他人を信じることのできない人間になってしまったのだ。 もちろん、恋もできなかった。 「はじめまして」とにこやかに笑う女性が、心の中で、『ダサいカッコ』と思っていることが、彼には わかった。 食事に誘い出掛けていくと、「素敵なお店」と言いながら、『違う店の方がよかった』と考えているのがわかった。 万事が その調子。 相手の考えが読めるせいで、彼は 人というものを信じることができなくなった。 どんな人間にも裏表がある。 その事実が、彼を人間不信にしてしまったのだ。 当然のことながら、自分に人の考えを読む力があることは、ひた隠しに隠してきた。 家族にも隠し通した。 人の心が読めることが ばれたら、人に気味悪がれ、社会から排斥されるに違いないと思ったから。 『隠してきた』と彼は言ったが、つまり 彼は、社会の異端者にならないために――異端者扱いされることを恐れて、“隠れていた”のだろう。 恐れ隠れながら、彼は、同時に、表の顔とは異なる心を持つ人間たちを軽蔑した。 かくして、彼の中には、卑屈と傲慢という正反対のものが同居することになったのである。 たまたま入った この店で、氷河とシュラの考えが読めないことに、彼は驚いた。 そして、なぜ読めないのかが気になり、この店に通い続けた。 そこに三人目の“読めない人間”瞬が登場し、必然性もないのに話しかけられ、親切にされ――そうなって初めて、彼は考えが“読めない”者たちに 自分の考えが読まれている可能性に思い至り、先ほどからずっと 恐れ おののいていたらしい。 彼は、瞬たちを普通の人間ではないと思い――特別な力を持った何者かであると思い――そして、瞬たちを“味方”や“仲間”だとは思わなかった。 彼は ほとんど 悩むことなく、瞬たちを“敵”に分類したのだ。 「瞬に敵意や害意がないことくらい――瞬が優しいことなんて、心を読まなくても わかるだろうに」 この店のバーテンダーやバイトの男を“何を考えているか わからない”せいで 怯え ひるむことは、誰にでも――超能力者でなくても――できるが、瞬が優しい人間だということを疑うことは、誰にでもできることではない――超能力者にしかできない。 誰にでもわかることがわからず、誰にでもできることができない挙動不審客の、まさに“超”能力に、氷河は呆れ果てているようだった。 その点、ナターシャは、誰にでもわかることが ちゃんとわかっている。 ナターシャは、その上、誰にでもわかることではないことまで――氷河やシュラが見掛け倒しだということまで わかっていた。 「ナターシャ、わかるヨ! マーマは とっても優しいヨ。パパもシュラも優しいヨ。ナターシャがピンチになると、すぐ助けに来てくれる。パパもマーマもシュラも、全然 恐くないヨ! ナターシャは、パパもマーマもシュラも大好きダヨ。パパはマーマが大好きで、マーマもパパが大好きで、大好きだから、一緒にいるんダヨ。ナターシャもダヨ!」 彼女にわかっていることを、ナターシャが、自称超能力者に 必至の目をして教え訴える。 そんなナターシャを見て、自称超能力者は 言葉に詰まり、そして ふいに泣きそうな顔になった。 “読める”彼には 読めた――わかったのだろう。 恐れる必要のないことを恐れて びくびくしている彼を、ナターシャが 力づけようとしていることが。 パパとマーマは恐くないという、彼女にとっての事実を知らせることで、恐がっている人を 一生懸命に安心させようとしているのだということが。 そんなことは、ナターシャの心を読めない瞬にも わかった。 ナターシャには見えていることが、自称超能力者には見えていない――見えていなかった。 人の心の裏側だけを見ようとして、彼は 人を正面から見ることをしていないのだ。 たった今も、そして これまでも、そうだったのだろう。 「あんたたちは、俺と同類なんじゃないのか」 「俺と瞬が貴様と同類なんかであってたまるか」 だが、だからといって敵なわけでもない。 氷河にとって 彼は、単なる挙動不審客だった。 それ以上でも それ以下でもない。 もとい、彼の挙動が不審だった訳がわかった今、彼は氷河にとって、ただの客だった。 それ以上でも それ以下でもない。 「あなたが読めていると思っているのは、普通の人でも注意深く見ていれば、あるいは機械を使えば わかることにすぎません。あなたは、洞察力が優れていて、勘もいいのだと思います。センサーが鋭いと言ってもいい。でも、ごく普通の人間ですよ。僕たちと同じように」 小宇宙で意思伝達のできる自分たちを、瞬は超能力者だと思ったことはなかった。 瞬は自分たちを普通の人間だと思っていた。 人を愛し信じることのできる普通の人間だと。 氷河によって、超能力者でも挙動不審客でもない“ただの客”にされ、瞬によって、“ごく普通の人間”にされてしまった男が、暫時 呆然とする。 「普通の人間……? 俺が?」 にわかには信じ難いと言いたげな、“ただの客”にして“ごく普通の人間”の声と表情――不満げな声と表情。 自分が“普通の人間”であることを 彼が喜べないのは、彼が普通の人間だからに他ならない。 そういう意味で、彼は正しく“普通の人間”だった。 「人に裏表があるのも、人が嘘をつくのも、大抵は 人を傷付けたくないからですよ。それは、思い遣りが作った偽り、優しい嘘かもしれません。裏表がなく正直なだけの人間は、人を傷付けることも多い」 「……」 「もちろん、逆の場合もあります。僕は氷河を とても大切に思っていますけど、そんなことは滅多に口にしない。そんなことを言うと、氷河がつけあがって甘えるから」 「俺がいつ……」 氷河の不満そうな声を、 「こんなふうに、自覚がない人間もいますし」 瞬は、微笑で受け流した。 「言葉や態度に出したものが偽りで、考えていることの方が真実だとも限りません。口では文句ばかり言いながら、きっと 頭の中でも文句ばかり言いながら、でも人に優しくしてばかりいる人を、僕は知っています。その人を、僕は裏表のある悪い人だとは思いません。冷たい人だとも思いません」 「……」 瞬の言葉に 彼が完全に同意できずにいるのは、これまでの彼が、表は綺麗で 裏は醜い(彼には そう見える)人間にばかり出会ってきたからなのだろう。 そんな人間が多くいることを、瞬も否定する気はなかった。 だが、世の中には、そういう人間しかいないわけではない。 人間というものは、それほど単純にはできていない。 人間というものは もっと複雑で、その上、その時々で大きく変化する。 そして、大抵の場合、人は、まず相手を信じなければ 信じてもらえず、まず 相手を愛さなければ 愛してもらえないのだ。 人を疑って 裏を探るところから始める人間は、人に騙されて損をすることはないかもしれないが、幸福になれない。 人が幸福になれなければ、それは 結局、その人にとって損でしかないのだ。 人は、裏を読める力などない方が幸せになれる――人は 超能力者などではない方が幸せになれる。 そう思うから――瞬は彼のために 彼を超能力者でないことにした。 自分たちのために、自分たちが超能力者でないことにした。 瞬の言を、100パーセント 受け入れたわけではないのだろうが、瞬が どういう意図をもって そんなことを言うのか――瞬が優しさから そう言っていることは――理解できたらしい彼が、心許無げにではあったが、初めて浅く頷く。 「そうか……俺は超能力者ではないのか……」 自分が普通の人間であることは、そう悪いことではない。 少なくとも 彼は そう思うことはしてくれたようだった。 そして、おそらく ナターシャのために、彼は、 「ナターシャちゃんが そう言うなら、ナターシャちゃんのパパとママは優しい人なんだろう」 と言った。 「もちろんダヨ!」 ナターシャが嬉しそうに、ぱっと明るく顔を輝かせる。 そんなナターシャを見て、彼は、この店に来て初めて、誰も疑っていない笑顔を見せた。 |