氷河が瞬に出会ったのは、母が亡くなってから数年が過ぎてから。 その時、氷河は18歳になっていた。 瞬は、アルカディアの外からやってきた訪問者だった。 アルカディアの住人になることを求めてやってきたわけではなく、地上の楽園アルカディアがどんなところなのかを見るためにやってきた“外の者”。 神々の平和の試験場と言われているアルカディアには、時折、そういう客人が外の世界から やってくることがあった。 アルカディアの平和が どのように保たれているのかを知ることを望んで、彼等は 荒んだ外の世界から 理想郷アルカディアにやってくる。 神々の結界に守られており、出ることは容易でも 入ることは困難なアルカディアに、どういう人間なら入ることが許されるのかを 氷河は知らなかったが、ともかく 瞬がアルカディアの内に入ることができたのは、瞬がアルカディアの平穏を乱す要因を持たない人間だと、神々に認められたからだったろう。 実際、瞬は、争い事を好まない――氷河より はるかに穏やかな性質の持ち主だった。 アルカディアには宿屋の類はないので(宿を営むということは、営利を追求することである)、そういう時には、アルカディアの住人たちが 持ちまわりで外界からの客人を 自宅(といっても、粗末な小屋のようなものなのだが)に泊めてやることになっていた。 その担当の家の者は、客人に アルカディアを案内する役目も負う。 案内といっても、アルカディアには 外から来た人間が見るべきものは、例の石碑くらいしかなく、その他には、畑や果樹の林、放牧のための野原がある程度なのだが。 アルカディアには、神々を祀る神殿すらなかった。 アルカディアは、アルカディアそれ自体が神々の神殿のようなもの。 神殿の中に 神殿を建てる必要はないのだ。 よほど酔狂な人間、あるいは アルカディアの住人になることを望む者でなければ、外からの訪問者たちは そんなアルカディアに3日で飽きる。 彼等は、アルカディアの“何もなさ”に呆れてしまうのだ。 瞬は、だが、アルカディアの“何もない”のどかな風景を喜んでくれた。 特に、例の石碑のすぐ脇に立つオリーブの木が気に入ったようだった。 オリーブは“平和”を象徴する木。 2株が寄り添うことで 実をつけるため、“協調”“調和”“愛情”を示す木とされることも多かった。 瞬が気に入ったのは、一本の枝で繋がっている一対のオリーブの木。 互いに伸ばした枝が、まるで二人の人間が手を繋いでいるように融け合っている、二本で一体になっているオリーブの木だった。 それは 確かに アルカディアでも そこでしか見ない木ではあったのだが、要するに ただのオリーブの木である。 瞬がなぜ、ただのオリーブの木のどこが そんなにも気に入ったのか、氷河には全く理解できなかった。 氷河が そう言うと、瞬は縦にとも横にともなく 首を振り、そして短く吐息した。 「そうだね。でも、こんな木がアルカディアの外にあったら、その一対は きっと“愛の木”だの“恋人たちの木”だのと名前をつけられることになると思うよ。そして、その木を名物に仕立て上げて 一儲けを企む人に利用されることになると思う」 瞬のその言葉に、アルカディアの住人であるところの氷河は 大いに呆れ、そして 感心したのである。 それが 氷河には全く理解できないことだったから。 瞬が 何の変哲もない一対のオリーブの木を好むことより 理解できないことだったから。 瞬は、ギリシャではなく、ギリシャの南方にあるエティオピアという国の民だということだった。 争いの絶えない世界を憂い、貧しい人、虐げられている人を救う手立てはないかと、その手掛かりを求めて、自分はアルカディアにやってきたのだと、瞬は氷河に告げた。 それが、自分がアルカディアにやってきた目的だと。 氷河は、瞬に知らされた瞬のアルカディア来訪の目的に、意外の念を抱いたのである。 これまでは、そんなことを考えてアルカディアにやってくるのは、歳のいった政治家や哲学者と相場が決まっていたのだ。 だが、瞬は氷河より一つ年下。 そんなことを真面目に考察するには 瞬は若すぎる――と、氷河は思った。 瞬の その思いは、弱者を救いたいという優しさから生まれた願いで、政治や哲学の分野の話ではないことに、すぐに 氷河は気付いたが。 「僕が生まれた国は、ギリシャの都市国家群ほど高い文化を有しているわけではなくて、誇れるものは武力しかない国なの。それで、戦争が絶えなくて――僕の両親は戦争のせいで死んでしまったんだ」 と、ある日、瞬は氷河に語り出した。 「戦争のせいと言っても、敵対する人との戦いの最中に死んだわけではなくて、戦争に勝って、故国に凱旋する途上で、僕の父は エティオピア軍に滅ぼされた国の残党に殺されてしまったんだけどね。父の死を知った母は、その悲しみに耐えきれず、父の後を追うように亡くなった。両親の死を悲しんでいる僕に、僕の兄は、戦争で肉親を失ったのは僕たちだけじゃないと言った。勝っても負けても、戦争は犠牲者を生むんだ――って。その時から、この地上世界から戦いをなくすことが、僕の悲願になったんだよ」 エティオピアは アルカディアほど恵まれた国ではないが、旱魃さえ起きなければ農作物は豊富に実り、旱魃が起きても、海があるため、国の民が飢えることのない国。 そのため、エティオピア自身が望まなければ 戦争を起こさなくても 国は立ち行くのだが、その豊かさゆえに、外部からの侵略が多く、防衛のための戦いは絶えることがないのだそうだった。 瞬は、その戦いをなくす術を求めて アルカディアにやってきた――と、氷河に告げた。 氷河は、戦いが嫌なら 戦いのないアルカディアに住めばいいと 瞬に勧めたのだが、そんな氷河に 瞬は力なく首を横に振るだけだった。 「僕の望みは、僕が戦いの外にいることじゃない。この地上世界のどこにも 戦いがなくなることなんだよ」 と呟くように言って。 氷河には、瞬がなぜ そんなことを望むのかが わからなかったのである。 だから“わからない”かおをした。 「欲を持たないアルカディアの住人には、僕の気持ちはわからないかもしれないね……」 氷河に そう告げる瞬の眼差しは、氷河を羨んでいるというより、悲しんでいるように見えた。 |