ついに辿り着いた、瞬のいる国。
エティオピアは、ギリシャの都市国家群を すべて合わせたよりも広い国土を持つ強大な国だった。
文化面ではギリシャには及ばず、武力以外に誇れるものはない――と、瞬は言っていたが、決して そんなことはなかった。
少なくとも エティオピアの都の景観は、氷河が これまで通ってきたギリシャの国々の都に比べても遜色のないものだったし、平和で のどかなアルカディアよりは ずっと発展していた。
幾つもの通りは すべて石で舗装され、その通りに並んで建つ家々も 2階建て3階建ての石造り。
アルカディアの氷河の家のように 木と茅でできた家など、1軒も見当たらない。
もちろん、人口もアルカディアの数千倍はあるのだろう。
通りは どこも賑やかで、特に市場は騒々しいほどの活気に満ちていた。
もっとも、氷河は エティオピアの都に入って まもなく、エティオピアの都の活気は この国で今 大変な事件が起きているせいだったことを知ることになったのであるが。

エティオピアでは大事件が起きていた。
それは 実は エティオピア国内だけのことではなく、地上世界全体に関わる大事件で、1年以上前に始まっていたのだが、その情報は まだギリシャにまで伝わっておらず、それゆえ 氷河もエティオピアの都に入って初めて、その事件の全容を知ることになったのである。

エティオピア国内だけではなく、地上世界全体に関わる大事件。
それは、海神ポセイドンによる地上世界水没の計画だった。
地上世界に生きる人間たちの醜悪に憤り、もはや人間たちの更生は不可能と判断した海神ポセイドンが大洪水を起こして、地上世界に生きている人間たちをことごとく滅ぼすことにした――というのだ。
大神ゼウスも、海神ポセイドンのその計画の実行を許したらしい。

だが、地上世界の守護神たる知恵の女神アテナが、その計画を阻止するために動き、ポセイドンが起こした大洪水で死んだ者を冥界に受け入れないという約束を、冥府の王ハーデスとの間に取り結んだ。
つまり、ポセイドンが地球規模の大洪水を起こしても、そのために人間が死ぬことはない――という約束を。
その約束が実行されれば、ポセイドンは、大洪水の目的である“地上世界に生きている醜悪な人間たちの殲滅”を果たすことはできないことになる。

かくして 知恵の女神アテナの働きによって地上世界の人間たちの滅亡という事態は免れることになったのだが、その約束の履行に、ハーデスは、『冥府の王が望むものを、人間たちが冥府の王に捧げるなら』という条件をつけてきたのだ。
ハーデスが約束の履行の代償として求めたものが、地上で最も清らかな魂を持つ者――すなわち、エティオピアの国の王弟だったので、エティオピア国内では 大騒ぎが起きていたのだった。

エティオピアの王弟は ハーデスの求めに応じることを すぐに承諾したらしいのだが、ただ一人の肉親を失うことになるエティオピアの国王が大反対。
エティオピア国王は、『そもそも ポセイドンは、地上の人間の醜悪に憤って人類を滅ぼすことを決めたのに、最も醜悪でないものを この地上世界から冥府に運ぶのは本末転倒ではないか』という理屈で、神々の不協和を突き、条件の変更を求めて 神々と渡り合っていたらしい。
自分の計画をアテナとハーデスに阻まれたことに不快の念を抱いたポセイドンが エティオピア国王に肩入れするという珍現象が起き、エティオピア王室の周辺は 予断を許さない状況。
エティオピアの民は、前代未聞にして空前絶後の この事態に どう決着がつくのかと、固唾を呑んで成り行きを見守っていた――というのだ。

氷河がエティオピアの都に入った日、エティオピアの都中が蜂の巣を突いたような騒ぎに見舞われていたのは、アテナ、ポセイドン、ハーデスという有力な神々を巻き込んだ騒動に決着がつき、エティオピア国王から その発表が為されるという告知があったからだったのだ。
その決議を聞くために、エティオピアの都中の民が 群れを成して、都の中央に建つ万神殿(パンテオン)に向かっていた。

氷河が その流れに身を投じることになったのは、地上世界の行く末が気になったからではない。
気にならなかったわけではないのだが、それとは別に。
パンテオンに向かう人々が、あちこちで『アンドロメダ』という名を口にしていて、どうやら群衆が向かっている先にアンドロメダがいるらしいことがわかったからだった。
アンドロメダというのが、エティオピア王家の遠い先祖の一人で、故国を救うために我が身を海獣の生贄に差し出した王女の名だということも、人々の嘆きの声を繋ぎ合わせていくうちに わかってきた。

「おいたわしや、瞬様」
「不吉なことを言うな。まだ 瞬様が冥界に連れ去られると決まったわけではないだろう」
「でも、ハーデスが瞬様を手に入れるのを諦めてくれるとは思えないよ」
「それは兄王様も同じだ!」
パンテオンに向かう人の波の中、あちこちで上がる彼等の嘆きの声が、おおよそのことを氷河に教えてくれた。

『僕は、地上の楽園の住人にはなれない』
『僕は、氷河に、いつまでも幸せに生きていてほしいよ。そのためになら、何でもできると思う』
『エティオピアの民の誰かに『アンドロメダを探している』と言えば、すぐに 僕の居場所はわかるから』
瞬は、あの時には既に、地上世界と そこに生きる人々の命を守るため、自身の死を覚悟していたのだ。
そうだったことが、氷河にはもう わかっていた。
そして、案の定。
パンテオンの至聖所前の広場に集まった群衆の前で、『ポセイドンの人類粛清を阻むために苦渋の決断をした』と告げるエティオピア王の傍らに立っていたのは、氷河が 生き続けるために絶対に必要な人、そのために 氷河が 飢えることのない楽園での暮らしを捨てて追い求めてきた瞬その人だった。

アテナ、ポセイドン、ハーデス、そして エティオピア王。
彼等の間でついた決着は、氷河にとって全く喜べないものだった。
希望がないわけでもないが、絶望的なものだった。
エティオピア王、曰く。

ポセイドンは大洪水を起こして 地上世界を滅ぼすことを断念する。
地上世界の人間は、自分たちが生き延びる代償として、地上で最も清らかな魂の持ち主であるところのエティオピア王弟 瞬を、冥府の王に捧げなければならない。
瞬は、冥界の楽園エリシオンで、永遠に覚めることのない眠りに就く。
ハーデスとポセイドンは、その眠りから瞬を解放する術を 一つだけ定める。
すなわち、ハーデスは、冥王と瞬の間に結んだ契約を記した契約のペンダントを ポセイドンに与え、ポセイドンは冥王の契約のペンダントを地上世界の ある場所に隠す。
その場所は、地上世界に生きる人間が誰一人 到達したことのない高い山の頂かもしれないし、地上世界に生きる人間が誰一人 到達したことのない深い海の底かもしれない。
地上世界のどこに隠されたのかわからない冥王の契約のペンダントを探し出し、ペンダントに刻まれた契約の文言が削り取られた時、瞬は永遠の眠りから解放され、地上世界に戻ることができる。
そして、冥王の契約のペンダントを見付け出し、その契約の文言を消し去った者には、地上の楽園であるアルカディアの王となる資格が与えられるだろう。

瞬の兄だという男が、苦く重い口調で語る神々の裁定を、氷河は ほとんど上の空で聞いていた。
氷河は、神々と そんな約定を交わさなければならなくなった不幸な兄の傍らに立つ瞬の姿だけを、ただ一心に 見詰めていた。
パンテオン前の広場には数千人になんなんとする群衆が ひしめき合っていたのに、至聖所の壇上に立っている瞬は、氷河が そこにいることに気付いてくれたようだった。

『僕は、氷河に、いつまでも幸せに生きていてほしいよ』
瞬の瞳が そう訴えている。
『最後に もう一度、氷河に会えて嬉しい』
瞬の微笑は、そう言っていた。
瞬は、何もわかっていないのだ。
瞬がいなければ、“氷河”は生きていられないということを。
幸せに生きていることなど、尚更 不可能なのだということを。

『私がいなくなったら、氷河は 氷河の幸福を見付けなければならないわ。私との幸福、私たちの幸福ではなく、氷河自身の、氷河だけの幸福。必ず見付けてね。それだけが、私の願いよ』
『僕は、氷河に、いつまでも幸せに生きていてほしいよ』
母と瞬の願いを叶えるために、氷河がしなければならないこと――氷河にできること。
それは、ポセイドンが地上世界のどこかに隠したという 冥王の契約のペンダントを探し出し、そのペンダントに刻まれている契約の文言を削り落とすことだけだった。

「世界は広い。冥王の契約のペンダントを探し出すことは 至難の業だと思う。だが、誰か――いつの日にか、冥王の契約のペンダントに出会う者がいたら、そこに記されている契約の文言を削り落とし、瞬を永遠の眠りから解放してやってくれ」
広い世界。
どこにあるのか 見当もつかない冥王の契約のペンダント。
瞬の兄は、それが自分の命のあるうちに見付かるとは考えていないようだった。
彼の言葉は、いつか偶然 そのペンダントを見付ける遠い未来の人間に向けて 訴えているもののように聞こえた。

エティオピアの多くの民が見守る中、不幸な兄の傍らに立っていた彼の弟の姿が 徐々にぼやけ、消えていく。
どうやら、ハーデスが待ちきれずに、瞬を彼の国に連れ去ろうとしたものらしい。
聴衆の悲鳴じみた声で、弟が冥界に連れ去られたことに初めて気付いた瞬の兄が、王の悲嘆を彼の民に見せぬために きつく拳を握りしめる様が、氷河の目には、泣き崩れるより一層 悲痛に見えたのである。

できることなら、王位など放り出して、自ら冥王の契約のペンダントを探しに行きたいのだろう。
彼の弟の命を犠牲にして生き永らえる者たちは、瞬の100分の1の価値もない――彼は そう思ってさえいるようだった。
だが、その“100分の1”が、この国には数十万人もいる。
地上世界全体となったら、その数は更に膨れ上がる。
エティオピア国王が、それきり 無言でパンテオンの至聖所の壇上から立ち去ったのは、最愛の弟が 自分の手の届かないところに奪い去られた悲しみのためではなく、エティオピアの国王として、彼の民を憎みたくないからだったかもしれない。






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