氷河は、幸いにして王ではない。
責任を負わなければならない家族もなく、氷河の不在を悲しむような親族もない。
氷河は、冥王の契約のペンダントを探す旅に出ることを、どんな逡巡もなく決意したのである。
決意して、最初に向かった先は、彼が生まれ育った地上の楽園アルカディアだった。
冥王の契約のペンダントを探し出した者をアルカディアの王にするという神々の裁定は、そのペンダントがアルカディアのどこかにあるから出てきたものなのではないか。
氷河は、そう考えたのである。

だが、それが、冥王の契約のペンダントを手に入れようとする者たちに無駄足を踏ませ、その挑戦を諦めさせるために、ポセイドンもしくはハーデスが企んだ罠だったことに、氷河はアルカディアに帰り着いた その日のうちに知ることになった。
エティオピアのパンテオンの広場で、氷河と 同じことを考えた者は大勢いたらしい。
しかも 彼等は、氷河と違って 食べ物を手に入れるために働きながら旅をする必要がなく、氷河より何日も早くアルカディアの地に辿り着いていたのだ。

冥王の契約のペンダントを見付け出した者に アルカディア王家を建てることを許す証として、神々の結界が取り除かれたアルカディア。
誰かが 『 Et In Arcadia Ego(我はアルカディアにもある)』は、並び替えると『 I Tego Arcana Dei(立ち去れ! 私は神の秘密を隠した)』になると言い出し、彼等は目的のものが アルカディアの石碑の中にあるのだと考え、石碑を打ち砕いてしまったらしい。
石碑の立っていた場所を掘り返した者もいたらしいのだが、彼等は 結局 何も見付けることができなかった。
氷河がアルカディアに着いた時、アルカディアで唯一の見るべきものであった石碑は石ころの山となり果て、瞬が好きだったオリーブの木の下に打ち捨てられていた。

石碑が置かれていた場所には、まるで枯れ井戸のような深い穴が開いていた。
氷河がアルカディアに帰り着いた時には、アルカディアを荒らした者たちは既に かつての楽園から立ち去ってしまっていた。
帰郷によって氷河が得ることのできたのは、冥王の契約のペンダントはアルカディアにはないという 空しい事実だけだったのである。
あわよくば、エティオピアの王弟を冥界から救い出した英雄としての栄誉と、地上の楽園アルカディアの王位を手に入れようとして この地にやってきた者たちの ほとんどは、諦めてエティオピアに帰っていったらしい。

だが 氷河は――氷河にとって、瞬のいないエティオピアは 既に旅の目的地ではなくなっていた。
アルカディアも、瞬がいないのでは もはや氷河の故郷ではない。
氷河は、途方に暮れてしまったのである。
彼が暮らしていた家は まだあったが、そこに帰る気にもなれず――瞬の好きだったオリープの木の根方、石碑の残骸が積まれた その横で、氷河は これから自分がどうすればいいのか――どこに冥王の契約のペンダント探しに向かえばいいのかを思案し始めた。

瞬の奪還を諦めることだけは できなかった。
氷河は、彼の母が言っていた“氷河自身の幸福”が何であるのかを知ってしまったのだ。
氷河は、瞬を取り戻すために、冥王の契約のペンダントを探し続けなければならなかった。

北に行くか、南に行くか。
山に向かうか、海に向かうか。
悩んでいる氷河の前に、気が付くと、一人の少女が立っていた。
年若い――だが、一目で尋常の人間ではないとわかる、美しい少女。
何者かと 氷河が問う前に、彼女は、
「氷河」
と、名乗ってもいない氷河の名を口にした。

「氷河。あなたは、他の誰とも違う。あなたは、アルカディアの王になることを望んではいない。瞬を救い出した英雄になりたいわけでもない。あなたは、ただ瞬を永遠の眠りから解放し、この地上世界に連れ戻したいだけ。瞬の愛がほしいだけ。そうでしょう?」
「瞬の愛を欲することが、アルカディアの王になることや瞬を救い出した英雄になることより、ささやかで 謙虚な望みだとは思わないが、その通りだ。俺は、瞬と瞬の愛がほしいだけだ」
この少女は、普通の人間ではない。
おそらく神だろう。
にもかかわらず、恐れる気持ちも湧かず、自身の真情が すらすらと言葉になって出てくるのは、なぜなのか。
氷河は奇異に思ったのだが、その言葉に嘘はなかったので、彼は まっすぐに その少女を見詰め続けた。
不思議な少女が、にこりと氷河に笑いかけてくる。

「私は、知恵と戦いの女神アテナ。瞬を、ハーデスの許から この地上世界に連れ戻すべきだと考えている者よ」
「女神アテナ……」
ギリシャ屈指の有力な女神の名を知らされても、あまり驚く気持ちが湧かない。
氷河の中では むしろ、『ああ、そうか』と得心する気持ちの方が強かった。

「私は、あなたに、瞬を取り戻してもらいたい。あの稀有な魂の持ち主は、地上世界に存在してこそ 光り輝くものだと思うから。けれど、神々の契約に縛られて、私は ハーデスのペンダントのありかを あなたに教えるわけにはいかないの。けれど、手掛かりを教えることはできるわ。世界の北の果て――氷の海の底に、一隻の船が沈んでいる。その船の中に、ハーデスのペンダントに繋がる手掛かりがあります。……北への旅は 長く つらいものになるでしょう。旅に出るか どうかは、あなた次第。決めるのは あなたよ」
「俺の答えは決まっている」

神に対して、たかが人間の分際で、よく こんな口が利けるものだと、自分でも思う。
だが、アテナは 不遜な人間を 咎めることなく、
「では。目覚めなさい。そして、あなたの為すべきことを――いいえ、あなたの したいことをなさい」
と、氷河に命じた。

途端に、氷河は目覚めたのである。
氷河は いつのまにか、瞬の好きだったオリーブの木の根方で 眠りに落ちてしまっていたらしい。
氷河が 女神アテナに出会ったのは 夢の中での出来事だったのだ。
ただの夢か。それとも、本当に それは 女神アテナの啓示だったのか。
いずれにしても、旅は始めなければならなかった。
氷河は立ち上がった。北に向かうために。






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