旅の仕方はわかっていた。
何らかの労働をして、労働の代価として金品や食べ物を得る。
人家のないところでは、動物を捕え、アルカディアとは比べ物にならないほど実りの少ない果実や木の実を探す。
その繰り返し。

その繰り返しの中で、氷河は、人間が基本的に利害で――愛や正邪ではなく、自分にとって益になるか損になるかで――自身の行動を決めることを知った。
善意が勝っている人間と 悪意が勝っている人間がいること、そのどちらかをしか持たない人間はいないことを知った。
瞬のように、地上世界全体、そこに生きている すべての人間のためを考える人間が 極めて稀な存在であること、自分のように 自分のことしか考えない人間も 実は少ないこと、多くの人間が 自分の家族、自分の属するコミュニティのために生きていること。
女性が 自分に妙に親切なのは、どうやら自分の容姿のせいだということも知った。

旅を続ける中で、氷河は、人を信じすぎて失敗もしたが、人を疑いすぎて、得られたかもしれない益を逃したこともあった。
北への旅を続け、様々の人間に出会い、知るうちに、氷河は自分が どんどん普通の人間になっていくこと――アルカディアの住人である資格を失っていくこと――に気付き、だが その事実を嘆きも喜びもしなかった。
世事に通じていくことは、あの清らかな瞳の瞬と自分の間に 人間的な距離を生むことだと認めることは切なかったが、それは 旅程をはかどらせた――瞬との間の物理的距離を縮めることに繋がっていたのだ。

アルカディア周辺では、石碑の打ち壊し騒動のこともあって、エティオピアでの出来事を知る者が多くいたが、ギリシャ国内でも北方には その事件のことは全く伝わっておらず、ギリシャを出ると、瞬の犠牲の上に自分たちの命があることを知る者は もはや一人としていなかった。
氷河は そのことに強い憤りを覚えたが、時が過ぎるにつれ、腹も立たなくなっていった。
瞬は、世界中の人々に感謝されることを望んで 我が身を犠牲にしたのではない。
瞬の望みは、世界中の人々が瞬の犠牲のことなど知らずに 各々の生を懸命に(できれば幸福に)生き続けることだったろうと思うようになっていったから。

世俗に身を投じ 世事に通じることは、氷河の価値観や考え方を 瞬のそれから遠ざけ、真逆のものにさえしたが、氷河は そのために かえって、自分と異なる瞬の価値観や考え方を理解できるようになった。
氷河自身は 瞬の価値観や考え方に沿って生きることはできないが、瞬のそれのような価値観や考え方もあるのだということは認められるし、だからこそ、瞬という存在の稀有も認められる。
であればこそ、絶対に 瞬はエリシオンで眠っていてはいけない――と思う。
瞬は必ず地上世界に戻らなければならないのだ。

3年間の氷河の旅は、氷河という人間を随分と変えてしまったが、瞬を冥府の王の手から取り戻し、冥界の永遠の楽園から地上世界に連れ戻したいという 氷河の心だけは変えることがなく、氷河の その気持ちを より強く深いものにした。

瞬は、瞬自身への報いを求めて 我が身を犠牲にしたのではなく、そうせずにはいられないから、そうした。
氷河も、そうせずにはいられないから、そうする。
氷河は ただ、瞬を諦めることができないだけだった。
瞬がいなければ――自分だけで生きていても、生きている甲斐がない。
もし 冥王の契約のペンダントに辿り着くことができず、この旅に費やした時間と労力が無駄になったとしても――氷河には そもそも他にしたいことも、できることもなかったのだ。

そうして、3年。
氷河は、夢の中で女神アテナが 彼に見せてくれた北の海の光景に、ついに辿り着いたのである。
ギリシャの北方に広がるヒュペルボレイオスの国の更に北。
10日前に立ち寄った村で聞いた、海神ポセイドンが沈めた船があるという浜。
季節は秋口。
海は凍っている。
船は 恐ろしく深いところにあるのだが、水に全く濁りがないため、氷河は船の存在を肉眼で確かめることができた。

間違いなく、アテナの夢で見た帆船である。
あの船のどこかに、冥王の契約のペンダントがあるのだ。
そう思うと、矢も楯もたまらず、氷河は自分が立つ海の氷を素手で割り砕いていた。
もともと頑健だった身体は、この3年に及ぶ旅で 更に鍛えられている。
北の海の水は 身を切るように冷たかったが、氷河の心は それ以上に熱かった。

それほど大きな船ではないが、探し求めるものは小さなペンダント。
だが、“広い世界のどこか”が“一隻の船のどこか”にまで、探索範囲が狭まったのだ。
くまなく探し続ければ、やがて それは必ず見付かる。
そう信じて、氷河は探し続けた。
探し続けて――だが、それは見付からなかった。

北の海。
1日に潜ることができるのは、せいぜい5回。
息が続く時間も限られている。
10日ほどかけて、氷河は船の至る所を探し、求めるものを見付けられず――氷河は、長い旅の間に一度も感じたことのなかった不安に囚われ始めていた。
ここまで来て、目的のものを見付けられないということがあるだろうか。
この浜に辿り着いた時には もう、目的のものを手にいれたような気になっていただけに、探しても探してもペンダントを見付けられないことが、氷河の中に これまでにない不安と焦りを生み、それは いよいよ絶望に変わろうとしていた。

11日目の夕刻。
もう一度だけ 潜ってみようとしていた氷河の側に、一人の男が近付いてきた。
氷河と歳の変わらぬ隻眼の男。
彼は、この地方に点在する海神ポセイドンを崇める村に住む若者で、アイザックと名を名乗り、この浜で何をしているのかと、氷河に尋ねてきた。

「ポセイドン様を信奉する海の民ではない よそ者が 氷の海に潜っているのを見たと、村の子供等が言っていたんで、確かめにきたんだが……。子供等は、恐くて近寄れないと言っていたから、どんな豪傑に会えるのかと期待していたのに、ただの優男じゃないか」
彼は 相当 腕に自信があるらしく、凶暴な豪傑と腕試しができるものと期待して、この浜をうろついている よそ者の許にやってきたらしい。
「海はポセイドン様の領域。邪な心で侵犯する者は 掃討しなければならないからな。ここで何をしているんだ」

問われたことに、氷河が正直に(冥王の契約のペンダントの部分には言及しなかったが)答えたのは、この浜近くの村の住人、ポセイドンの崇拝者なら、よそ者が知らない何らかの情報を持っているのではないかと考えたからだった。
北の海の沈む船の中に この世に二つとない宝があるという夢を見て、その宝を手に入れるため、ギリシャの地から はるばる この北の果てまで旅をしてきたと告げた氷河に、アイザックが与えてくれたのは、海の民だけが知る情報ではなく、派手な嘲笑だった。
彼は、真顔の氷河の前で、比喩ではなく実際に、腹を抱えて大笑いしてくれた。

「馬鹿げたことを……。そんな夢を信じて、ギリシャから この北の果てまで 旅してきたのか? 豪傑と勝負するつもりでやって来た決闘の場所で、恋に恋する夢見がちな乙女を見付けた気分だ」
ひとしきり笑い続けて――その“ひとしきり”が長かったのだが――彼は、自身の笑いを止めるために、この船の由来(船が海に沈んでから辿った道)を、氷河に教えてくれた。
「あの沈没船は、この辺りのガキ共の夏場の遊び場になっている。俺もガキの頃は、あの船で よく隠れんぼをした。あの船の中のことは、隅から隅まで知っている。あの船に、財宝なんてものはないぞ。めぼしい積荷は、船が沈んだ50年前に引き上げられた。ここにあるのは、正しく残骸だ」
「あの船の隅から隅まで知っている……?」

ポセイドンが 地上世界のどこかに 冥王の契約のペンダントを隠したのは、3年前。
夏場に 子供たちの遊び場になっているというのなら、その間に巡ってきた3度の夏、子供たちは この船の中を くまなく探索してまわっただろう。
だが、誰も、この船に宝と呼べるようなものを見付けた者はいなかった――というのか。

氷河の青ざめた頬を見て、アイザックの笑いが やっと治まる。
この船に宝が隠されていると、氷河が本気で信じていたのだと知り、氷河を見るアイザックの眼差しは、憐れみのそれに変わった。
その憐れみには、少なからず 侮蔑の感情が含まれていたが。

「俺だって、宝を掘り当てる夢を見たことがある。3年ほど前だったかな。ここより南の国のどこかなんだと思うが、幹と幹が一本の枝で繋がっているオリーブの木があるんだ。その繋がった枝の下に、『 I Tego Arcana Dei (立ち去れ! 私は神の秘密を隠した)』という文字が刻まれた石が転がっている。その石ころの下に 王冠が埋まっているんだ。夢の中で、俺は それを掘り出して、その地の王になる。まあ、夢の中の出来事だがな」
「 I Tego Arcana Dei ……?」
「だが、そんな夢を見たからといって、この広い世界のどこにあるのかもわからない たった1本の――いや2本か―― 対の木を探す旅に出る馬鹿が どこにいる? 一生かけても 見付けられず、自分の人生を無駄にするだけだ。一度見ただけの夢のために? 俺は そんな愚かなことはしない」
「……」

氷河は心臓が高鳴った。
夢の中で、アテナが言っていた言葉を もう一度 思い出す。
アテナは、冥王の契約のペンダントのありかを教えるとは言っていなかった。
手掛かりを教えることしかできないと、彼女は言っていたではないか。
氷河の心臓は、破裂しそうなほど大きく強く暴れていた。
アイザックが夢に見た木のある場所を、氷河は知っていたのだ。

「馬鹿げた夢のことは忘れて、故郷に帰るんだな。幸せや幸運なんてものは、大抵、自分の足元にあるもんだ」
「言われなくても、そうする」
氷河の震える声を、アイザックは夢想家が実際家になった証と解したらしい。
彼は、
「それがいい」
と微笑んで、浜から立ち去っていった。
彼に与えられるはずだった王冠に、手を伸ばそうとすらせず。






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