光が丘公園の芝生広場の脇にある舗装道の一画は、子供たちが自転車の練習をするスペースになっている。 特に自転車練習場に指定されているわけではないのだが、そこでは いつも 補助輪を外したばかりの子供たちが 幾人か、順番に その道を走る練習をしていることが多かった。 自転車に乗る練習をしている子供たちが操っている自転車は、どれも よろよろと蛇行して走っていて危なっかしく、瞬は 常々 その練習場の向こう側に行く時は必ず、練習場を大きく迂回するように、ナターシャに言ってあった。 にもかかわらず、その日 ナターシャは 練習場を横切り――しかも、練習中の自転車が近付いてくるタイミングを見計らったように横切り――それを二度三度と繰り返した。 必ず迂回するように 常々 注意されている場所を、ナターシャがわざと行ったり来たりしているのは明白。 ナターシャは、意識して危険地帯に足を踏み入れ、予測できない動きを見せる自転車を ぎりぎりのところでよけるという遊戯に興じているのだということに気付いた瞬は、問答無用でナターシャの身体を抱きかかえ、危険地帯から退避させたのである。 「ナターシャちゃん、自転車の練習をしている人たちの邪魔をしちゃ駄目だよって、いつも言ってるでしょう? ナターシャちゃんは、僕がいつも言ってることを忘れちゃったの?」 避難した場所で 瞬に問われたナターシャは、すぐに、 「ワスレテナイ」 と答えてきた。 ナターシャの声が、マーマの言いつけを破ったことを いけないことだと意識していないような声だったので、瞬は少なからず 戸惑ったのである。 ナターシャは いつも、自分が“パパとマーマの言いつけ守る、いい子のナターシャ”であることを得意に思っているような少女だった、 少なくとも、昨日までは そうだった。 そのナターシャが、マーマの言いつけを破って、けろりとしているのは どういうことなのか。 なぜ それをしてはいけないのかを、ナターシャは理解できていなかったのか――説明が足りなかったのか。 瞬は、ナターシャの前にしゃがみ、彼女の視線を捉え、彼女の両手を握って、以前 確かに言った記憶のある言葉を、もう一度 彼女に繰り返した。 「あそこで自転車に乗る練習をしている人たちの邪魔をしちゃ駄目だよ。あそこを横切るのは とっても危ないから、絶対 だめ。そんなことをしたら、ナターシャちゃんだけでなく、自転車の練習をしている子たちも危険でしょう? もし、練習している子が、ナターシャちゃんのせいで 自転車ごと転んで 大怪我をしたら、どうするの。その怪我が、大人になっても ずうっと治らない怪我だったら、大変だよ。『ごめんなさい』って謝るだけじゃ済まない。その子は、ずうっと 一人で歩いたり走ったりすることができなくなるかもしれない。ナターシャちゃんは 毎日ずうっと その子が歩くお手伝いをしてあげなきゃならなくなるかもしれない。一人で歩けない その子もつらいけど、その子のパパやママや お友だちや、ナターシャちゃんや僕や氷河もつらい。ね、わかるでしょう?」 「ウン……」 瞬に きつく注意されて、ナターシャは小さく頷いた。 頷きはしたが、ナターシャは何か言いたげだった。 ナターシャが、何か言いたげにしていることには、瞬も気付いていたが、瞬は あえてナターシャに何を言いたいのかを尋ねなかった。 いけないことをして叱られた時、『デモ』や『ダッテ』は禁止。 ナターシャには日頃から そう言ってあったし、これは『デモ』や『ダッテ』に続く言い訳を聞けるようなことではないと思ったから。 ナターシャや自転車の練習をしている子供たちが 怪我をするようなことは、あってはならないのだ。 これは、『デモ』も『ダッテ』もなく、絶対に守らなければならないこと。 そう思うから、瞬は ナターシャに『デモ』も『ダッテ』も言わせなかったのである。 それが、ナターシャが妹を欲しいと言い出した前日のことだった。 「おまえは危ないからって、ナターシャに特訓をやめさせたけど、ナターシャにも言い分はあったわけさ」 「特訓? 特訓……って……」 瞬に叱られた時、『デモ』や『ダッテ』を言うと、瞬だけでなく氷河も ナターシャを叱ってくる。 だから ナターシャは、瞬に叱られた時、『デモ』も『ダッテ』も言わず、瞬に頷いた。 しかし、それで得心できなかったナターシャは、どうやら 氷河と瞬の代わりに 星矢と紫龍に『デモデモ ダッテ』をしたらしい。 ナターシャは、星矢と紫龍に、瞳に涙をにじませて、 「ナターシャは すばしっこさの特訓をしてただけだったノニ……!」 と訴えてきたのだそうだった。 「ナターシャは すばしっこさの練習をしようと思ったんダヨ。ナターシャは すばしこいナターシャになって、敵が来た時、パパとマーマの邪魔にならないようにしようと思ったんダヨ。そうすれば、パパとマーマは悪者を退治できて、世界の平和も守られて、パパとマーマは死ななくて、ずっとナターシャと一緒にいてくれル。ナターシャは そのための練習してたのに、そんなことしちゃ駄目って、マーマはナターシャを叱るノ。パパもマーマの味方するノ。パパとマーマはナターシャのこと、嫌いなの……」 「んなことないって」 「ダッテ、ナターシャはパパとマーマのために頑張ってたノニ……ナノニ……」 大きな瞳から、大きな瞳に ふさわしい大粒の涙を ぽろぽろ零して 泣きじゃくるナターシャに、星矢と紫龍は全面降伏。 そして、星矢は、ナターシャの涙を止めるために、パパとマーマの心を確かめる秘策を 彼女に授けたのだそうだった。 「氷河と瞬がナターシャを好きか嫌いか確かめる いい方法がある。ナターシャ。おまえ、氷河と瞬に『妹が欲しい』って言ってみろよ。きっと、氷河と瞬は、ナターシャの他に子供はいらないって言うから」 「イモート?」 「ああ。弟でもいいけど、ここは妹の方がいいだろうな。ナターシャに そう言われたら、氷河と瞬は きっと すごく困った顔をするぞ。氷河と瞬は、ナターシャ以外の子供はいらないって思ってるから、すぐに、それは無理だって言うだろう」 「言わなかったら? パパとマーマが、ナターシャより いい子で可愛いイモートを連れてくるって言ったら……?」 「言わない、言わない。絶対 言わない」 「ほんと?」 「ほんと、ほんと。もし 氷河と瞬が ナターシャ以外の子供を連れてくるって言うことがあったら、俺、一生分の俺のおやつをナターシャにやるよ」 「……」 ナターシャが星矢に授けられた秘策を試すことにしたのは、自分がパパとマーマのただ一人の娘であることに自信があったからではなく、星矢が一生分のおやつを賭けるほど、その秘策の成功を確信しているから――だったろう。 ナターシャが信じたのは、彼女に対する氷河と瞬の愛情というより、おやつに対する星矢の愛着だったに違いない。 ともあれ、ナターシャは 星矢に授けられた秘策を 彼女のパパとマーマに試してみた。 おかげで、氷河と瞬は、しなくてもいい苦悩を背負い込むことになってしまったのである。 泣くに泣けず、笑い飛ばすことは なおさらできず――瞬は なぜか 星矢ではなく紫龍を責めることになった。 「星矢はともかく、紫龍も その場にいたんでしょう !? どうして止めてくれなかったの! せめて 僕たちに そのことを教えてくれていたら……!」 そんなことがあったと事前に教えてもらえていたら、ナターシャに 妹が欲しいと言われた時、即座に『僕たちの子供はナターシャちゃんだけだよ』と 笑顔で答えていた。 それで すべては丸く収まっていたはずなのだ。 にもかかわらず、紫龍は その報告を怠った。 そういう理屈で 瞬は紫龍を責めたのだが、それは紫龍にとっては理不尽としか思えない叱責だったらしい。 「なぜ俺が責められるんだ! ナターシャに秘策を授けたのは、俺ではなく星矢だぞ!」 紫龍の反駁には、筋の通った理があった。 その理を、星矢が 冷酷に切り捨てる。 「叱られた時、『デモデモダッテ』するのは悪い子なんだぜ、紫龍。子供じゃないんだからさ、潔く 自分の非を認めろって」 星矢にだけは、そんなことを言われたくない。 平気で そんなことを言ってのける星矢に、紫龍は恨みがましい目を向けた。 子供でなくても、大人であっても、『デモデモダッテ』をしたい時はあるのだ。 「普通、わざわざ知らせるか? ナターシャに妹を作るなんて、土台 無理な話だ。おまえたちが 真面目に悩むなんて、俺は考えもしなかった」 「俺も俺も。いやー、俺、おまえが筋金入りのブラコンだってこと、つい うっかり忘れててさー」 雉も鳴かずば 撃たれまい。 星矢の余計な一言に むっとした氷河が、物も言わずに 星矢の頭を殴りつける。 「何だよ! せっかく瞬のお目玉を逃れられたと思ってたのに、結局、殴られんのかよ!」 星矢は文句たらたらだったが、星矢が殴られたことで 胸中に抱いていた不公平感が薄らいだのか、紫龍は自らの非を認め 受け入れる気になったようだった。 そして、氷河はといえば、ナターシャの危険な遊戯の目的が 世界の平和とパパとマーマの命を守るためだったことを知って、すっかり感激してしまったらしく、なぜナターシャが瞬に叱られている時 ナターシャの味方をしてやらなかったのかと猛反省。 氷河が これまで以上に娘に甘いパパになってしまうだろうことが見て取れて、瞬は 深く長い溜め息を洩らすことになったのである。 それは、つまり、瞬が叱らなければならない子供が二人に増えたということだったから。 |