ナターシャが 妹を欲しいと言い出したのは 星矢の入れ知恵によるもので、ナターシャの本意ではなかった。 何はともあれ、その事実は 瞬の心を安んじさせた。 そして、この難局(実は難局でも何でもなかった難局)の打開策を講じることができるようになった。 ナターシャのパパとマーマが ナターシャを叱るのも ナターシャの味方をするのも、すべてはナターシャを大好きだからなのだということを、彼女に伝えればいい。 こればかりは、紫龍の言う通り。 ナターシャに妹を与えることは そもそも無理なことなのだから、ナターシャのパパとマーマは 彼女の偽りのオネガイに真面目に悩んだりせず、事実を彼女に知らせればよかったのだ。 最善かつ最適なタイミングは逃してしまったが、遅ればせながら、瞬は その作業に取り掛かることにしたのである。 「ナターシャちゃん。ナターシャちゃんは 本当に妹が欲しいの?」 あまり役に立つとは思えなかったが、氷河にも同席してもらうために 氷河の出勤前。 氷河の膝に座っているナターシャに、瞬は確認を入れた。 「僕と氷河が、ナターシャちゃん以外の子供はいらないと思ってても? 僕たちがナターシャちゃんのことが大好きでも?」 これは すばしこさの特訓事件の続きなのだと察したらしいナターシャが、一瞬 身体を硬くする。 ナターシャを緊張させないために、氷河には ナターシャの椅子になってもらっているのだ。 氷河の手の温もりと 瞬の やわらかな表情で、ナターシャの緊張は すぐに解け、彼女は平生の 柔軟で正直なナターシャになってくれたようだった。 「アノネ。ナターシャ、ほんとは星矢お兄ちゃんに、そう言ってみろって 言われたカラ、パパとマーマにオネガイしたんダヨ。星矢お兄ちゃんは、パパとマーマは きっと、パパとマーマの子供はナターシャだけでいいって言うって言ってタ」 「じゃあ、ナターシャちゃんは、本当に妹が欲しいわけじゃないんだね?」 「……」 すぐに『ウン』と答えてくるだろうと思っていたナターシャが、案に相違して 黙り込んでしまう。 答えを迷っているように、幾度か瞬きを繰り返してから、ナターシャは 上目使いに瞬の顔を覗き込んできた。 「デモネ。デモ、パパとマーマの子供のナターシャは、時々 叱られるけど、パパとマーマが大好きで、それで とってもシアワセなんダヨ。だから ナターシャは、ナターシャに妹ができたら、シアワセな子供が増えるって思ったんダヨ。シアワセな子供か増えると、マーマは嬉しいでショ? マーマの夢は、世界から かわいそうな子供がいなくなることなんでショ? ナターシャ、世界中の子供がパパとマーマの子供になれば、マーマの夢が叶うって思ったノ」 「ナターシャちゃん……」 瞬を見詰めるナターシャの瞳は 真剣そのもの。 彼女は 心からマーマの夢が叶えばいいと願ってくれているのだ。 これでは 氷河だけでなく 自分まで、ナターシャを叱れない駄目マーマになってしまうと、瞬は本気で その事態を案じることになってしまったのである。 「マーマ、違うノ?」 言葉に詰まった瞬に、ナターシャが尋ねてくる。 瞬は、ナターシャを抱きしめてやりたい気持ちを懸命に抑え、そして 自分に活を入れた。 「うん。違う。僕の夢は、世界中の すべての子供が自分のパパとマーマと平和に仲良く暮らせることなんだ。パパとマーマがいない子供たちも 優しい大人に守られて、希望をもって生きていけることなの。僕と氷河の子供はナターシャちゃんだけだよ」 「デモデモ」 叱られた時に『デモ』と『ダッテ』は禁止。 ナターシャが言葉を途切らせたのは、そのルールを思い出したからだったろう。 マーマの言いつけを守ろうとする“いい子”のナターシャに、瞬は微笑んだ。 「叱ってるんじゃないよ。ただ、ナターシャちゃんの他には誰も、氷河の娘にはなれないんだって言っているだけ。氷河はナターシャちゃんだけのパパなんだよ。氷河は不器用だから」 瞬に、叱っているのではないと言われ、ナターシャは安心したらしい。 首をかしげて、ナターシャは瞬に尋ねてきた。 「マーマは? マーマもナターシャだけのマーマ?」 「僕は、氷河とナターシャちゃんのマーマかな。氷河は、ナターシャちゃんとおんなじくらい手がかかるから」 ナターシャと同レベルの子供にされるのは不本意だったらしく、ナターシャの顔の上で、氷河の顔が渋面になる。 パパの顔が見えていないナターシャは、急に笑顔のボルテージを上げて、大きく頷いた。 「ナターシャ、知っテル! パパはマーマに叱られるのが大好きなんダヨ。ンートネ、ンート、『人を叱り慣れていない瞬が、俺のために 俺を叱ってるのを見ると、ぞくぞくする』って、パパは言っテタ。『ナターシャは ぞくぞくしないのか?』っテ。ナターシャは ぞくぞくしないから、変なのって思ったんダヨ」 「……」 たとえ それが、マーマがナターシャを叱るのはナターシャのためを思ってのことなのだということをナターシャに教えるための教育的指導の一環だったのだとしても、もう少し 別の言い方、別のアプローチ方法はないのだろうか。 瞬は、ナターシャに気付かれぬように 氷河を睨みつけたのだが、氷河は こういう時に限って、無表情技が完璧。 ナターシャはナターシャで、“パパのことは何でも わかっている自分”に大得意状態だった。 「パパは、ナターシャより甘えんぼなんダヨ。パパはマーマを一人占めしたいノ。パパは ナターシャだから、マーマに甘えるのを特別に許してるんだッテ。ナターシャ以外は、誰もマーマに甘えちゃ駄目だッテ。マーマに甘えるのは、ナターシャとパパだけのトッケンなんダヨ!」 本当に 氷河は、自分の娘にどういう教育を施しているのだろう、 そんなことを真顔でナターシャに語っている氷河の姿が 容易に想像できて、瞬は 軽い頭痛に襲われてしまったのである。 その頭痛を こらえつつ、さりげなく、氷河の教育内容に修正を加える。 「氷河の言う通りだよ。氷河と僕の子供でいることは、ナターシャちゃんだけの特権。ナターシャちゃんのパパとマーマでいることは、氷河と僕だけの特権」 瞬の修正に、ナターシャが、 「ホント?」 と確認を入れてくる。 「ほんと」 「ホントにホント?」 「ほんとにほんと」 重ねて尋ね、瞬の確約を手に入れて やっと、ナターシャの中にあった『デモデモダッテ』は完全に消えてくれたようだった。 いつもの 素直ないい子に戻ったナターシャが、この件で初めての『ゴメンナサイ』を口にする。 「ウン。マーマ、ゴメンナサイ。ナターシャ、もう自転車の練習場で 特訓はしないヨ」 「それがいいね。すばしこさは、氷河と鬼ごっこをして練習しよう。ナターシャちゃんも、その方が嬉しいでしょう?」 「ナターシャ、それが いちばん嬉しいヨ!」 「じゃあ、早速 明日から特訓を始めようか」 「ワーイ、ヤッター!」 妹のことは すっかり忘れてしまったナターシャが、嬉しそうに頬を紅潮させ、彼女の修行仲間の方を振り返る。 「パパ! ナターシャ、パパとマーマのために頑張るヨ!」 「俺の特訓は厳しいから、覚悟しておけ」 氷河の“厳しい”など、口だけに決まっているのだが、瞬は あえて その件で 氷河をからかうことはしなかったのである。 氷河の父の威厳を守るためではなく、世界の平和とパパとマーマを守るために パパとの厳しい特訓に挑む覚悟を決めたナターシャの健気に免じて。 |