「パパ? 瞬ちゃんに何してるノ?」
『瞬ちゃんと 何してるノ?』でないところが――ナターシャは 相変わらず 鋭い。
それでも 瞬の腰にまわした手を解くことはせずに、氷河は、ドアの前に立っているナターシャに相対した。
「それは……なかなか難しい質問だな」
「ナ……ナターシャちゃん、これは、その……」

幸か不幸か(幸だろう)瞬はまだ、氷河に腕も手も指も絡ませていなかった。
なるべく さりげなく氷河から離れようとする瞬を、だが、氷河は離さない。
そんな氷河を、ナターシャの前で責めるわけにもいかず、瞬は その場で もじもじすることになってしまったのである。
おそらく、この地上で10指に入る強者であるところの乙女座の黄金聖闘士が。
こういう時、全く動じているように見えない氷河が、ある意味、羨ましい。
瞬は、心の中で、冷や汗とも涙ともつかない何かが流れていた。
そんな二人を、ナターシャが、大きな瞳で じっと見上げ、見詰めている。

「モシカシテ……」
「あ……あのね、ナターシャちゃん……」
「モシカシテ……」
水瓶座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士の抱擁の意味が、ナターシャにわかるとも思えなかったのだが、勘のいい彼女が何かを感じ、そして、嫌悪感に似た感情を抱かないとは限らない。
ナターシャの次の一言、ナターシャが次に見せる表情を、緊張して 瞬は待つことになった。

1分、2分、3分――。
どんどん時間が過ぎていくと 瞬は感じていたが、それは実際には ほんの2、3秒のことだったのかもしれない。
ともあれ、瞬の主観で3分以上の時間が過ぎてから、ナターシャは ふいに ぱっと明るく顔を輝かせた。
そして、リビングルームのほぼ中央に立っている氷河の許に、弾んだ足取りで駆け寄ってくる。

「パパ! モシカシテ、ナターシャのマーマは瞬ちゃんだったのっ !? 」
「え?」
「は?」
そうだと答えるべきか、違うと答えるべきか
氷河と瞬は、答えに迷ったのである。
ナターシャは、瞬たちの返事を待っていなかった。

「ナンダ。ナターシャ、一生懸命、マーマを探してたんダヨ。ソッカ。瞬ちゃんがナターシャのマーマだったんダ!」
『そうだ』と答えることは、ナターシャに嘘をつくことになるのだろうか。
しかし、ナターシャは もはや『違う』という答えを受け入れてくれそうになかった。
ナターシャは、声や足取りだけでなく その全身が、大きすぎる喜びを抑え切れずにいるように うきうきと弾んでいた。

「ヨカッター! 瞬ちゃんなら、綺麗だし、優しいし、絵本も いっぱい読んでくれるし、ニンジンは甘いし、パパといてもタンポポじゃないヨ!」
「タンポポ? 何だ、それは」
「ナターシャも知らナイ。アレ? デモ、だったらドーシテ、パパとマーマは 違うおうちに住んでるノ?」
氷河の空いている方の手を 両手で掴んで ぶんぶん振り回すナターシャは、パパから“素敵な答え”が返ってくることを信じ切っている顔。
その期待を裏切ることが、氷河にできるわけがなかった。

「ああ。それは、ナターシャの洋服や玩具を置く部屋が必要だったから――。もうすぐ、俺たちの家の下の階の部屋のリフォームが済んだら、そこに瞬が来ることになっているんだ。ナターシャと同じ家だぞ」
「ワーイ!」
「氷河……」
最低限の礼儀と遠慮を わきまえていると言っていた氷河の、これが 最低限の礼儀で、最低限の遠慮なのか。
おそらく、氷河の“最低限”と 社会一般的な“最低限”は違う。

「そうだな」
たとえ、氷河の“最低限”と 社会一般的な“最低限”が大きく乖離していても――その二つが どれほど大きく乖離していても――それは ただそれだけのこと。
大事なことは、氷河の“最低限”が 瞬の許容範囲内にあるか否かということである。
「うん……」
氷河に問われ、瞬は頷いた。
氷河の“最低限”が 社会一般的な“最低限”から どれほど大きく乖離していようと、瞬の許容力、瞬の許容範囲は その数百倍も非常識だったのだ。

ナターシャは“マーマ”をどういうものと思っているのか。
一般的には、“マーマ”は女性だということを知らないのか。
瞬が女性ではないと気付いているのか、いないのか。
瞬が女性でないことを知らないのか、知っているのか。
その重要な事柄を、氷河と瞬は 確かめないことにした。






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