瞬が、美意識のおかしい不細工な中年男と出会ってしまうのは運命なのかもしれなかったが、このタイミングで 瞬が宮から外に出てきたのは、『無礼な陳情者を追い払ってくる』と言って沙羅双樹の苑を出ていった氷河が いつまでも経っても 戻ってこなかったからだった。
何か深刻なトラブルでも生じたのかと、それを案じて、瞬は宮の奥からファサードにまで 出てきたのだ。

「氷河、どうしたの?」
「瞬。また、そんな恰好で。宮の外に出る時には聖衣を着用しろと言っただろう」
瞬が身に着けているのは、短い水色のチュニック。
手足を惜しみなく さらけ出した、いわゆる修行着姿で登場した瞬に、氷河が渋面を作る。
氷河は、宮の外に出る時には必ず黄金聖衣を まとうようにと、常々 瞬に言っていた。

「氷河だって、聖衣を まとっていないでしょう」
「あんな重たくて 余計な装飾だらけの聖衣は、日常生活の妨げにしかならん」
本音を言えば、バトルの時にも 黄金聖衣の過剰な装飾は 邪魔でしかないのだが、さすがに、その本音を口にしないだけの分別は、氷河にも あった。
氷河は、黄金聖衣は身につけたくはないが、それを自分のものにはしておきたかったのである。
「僕だって、おんなじだよ。あんなのを がちゃがちゃさせてたら、背伸び一つできない。あんなのを身にまとって 結跏趺坐ができていたシャカの脚は、少なからず変形してたと思うよ」
「あんな奴の脚は どうでもいいが、おまえは黄金聖衣を装着していないと、皆が気安く近寄ってきて 下らない頼み事を始めるから、迷惑なんだ。俺は黄金聖衣なんぞ まとってなくても、皆、恐がって 寄ってこない」
「氷河は迫力あるからね。どうしたの」
「また、変な奴が陳情に来た」

隠し通せると思っていたわけではなかったのだが、瞬は やはり気付いてしまったようだった。
黄金聖衣をまとっていれば、黄金聖衣の余計な装飾の代表格である マントで、この不細工中年を隠し通せていたかもしれないのに。
――と 情けない後悔をしつつ、氷河は、不細工中年男の姿が瞬の視界に入らないように遮っていた身体を脇にずらしたのである。
瞬は いつも通りに、こんな胡散臭い男の電球交換依頼の話を真面目に聞いてやるのだろうと、腹の中で 腹を立てながら。
しかし、不細工中年男の姿を認めた瞬の反応は、氷河の予想とは微妙に違っていた。
不細工中年男の顔を認めると、瞬は あっけにとられたように、
「なぜ、あなたが聖域に……?」
と呟いたのである。

「知っている奴なのか」
氷河が尋ねると、
「氷河も会ってると思うけど……」
という答えが返ってくる。
しかし、氷河は こんな男に会った記憶はなかった。
相当 鍛えられた身体と 40代とおぼしき年齢から、氷河は勝手に彼を 聖闘士になることのできなかった雑兵の成れの果て(いわゆる名もない端役)と決めつけていたのだが、そうではなかったのだろうか。
この男にも名前くらいはあるのだろうか。
自分では そうと意識せずに 失礼千万なことを考えて、氷河は眉をしかめた。

「こんな不細工な男に知り合いはおらん。たとえ知り会っていても、俺は 何の役にも立ちそうにない情報は 速やかに自分の記憶域から消去することにしている」
「天間星アケローンのカロンさんだよ。僕は、冥界のアケローン川で カロンさんにとっても 親切にしてもらったの。カロンさんのおかげで、僕は、生きている人間には渡ることのできないアケローン川を渡ることができたんだよ」
「冥闘士なのかっ !? 」

カロンの顔は 長く記憶に留めておきたい代物ではない。
たとえ 1対1のタイマンで戦っていたとしても、自分は この男とのバトル終了3秒以内に、この顔と この顔の持ち主に関する情報を脳の記憶域から消去していたに違いない。
――ということについては、氷河は絶対の自信があったが、冥闘士の生き残りを“親切な人”扱いする瞬の記憶力は、水瓶座の黄金聖闘士の記憶消去力(忘却力ではない)より はるかに(たち)が悪い――と、氷河は思った。
瞬のことだから、カロンが瞬に示してくれた“親切”というのも せいぜい、“瞬が本気になって戦いを始める前に倒れてくれた”レベルの“親切”に決まっているのだ。
となれば 当然、この男は 今でも アテナとアテナの聖闘士と聖域の敵――ということになる。
氷河は、即座に心身を緊張させて臨戦モードになり、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士として、天間星アケローンのカロンに対峙したのである。

「冥闘士が なぜ聖域にいる! アテナの結界を どうやって破ったんだっ」
氷河に怒鳴りつけられたカロンが、慌てた様子で 2メートルほど後方に飛びすさる。
それから 彼は、顔の前で 両手を左右に振って、敵意のないことを氷河たちに示してきた。
「まままままま待てっ。落ち着け! 早まるなっ! 今の俺は 冥闘士じゃない。元冥闘士だ。三途の川の渡し守の職を失って、今は 地上世界で堅気の仕事をしている」
「堅気の仕事だと? 元冥闘士の貴様に どんな仕事ができるというんだ!」
『元冥闘士には 仕事ができない』というのは、どう考えても、極めて失礼な偏見である。
カロンは、だが、氷河の失礼な偏見を責めることもせず、冥界崩壊後の 彼の境遇を語り出した。

「あの戦いの後、俺は 故郷のイタリアに帰ったんだ。しばらく ミラノで職探しをしていたんだが、なかなか いい仕事に出会えなくてな。結局 ヴェネツィアに出て、今はヴェネツィアのジュデッカ運河で 観光客相手にゴンドリエーレをしている」
「え……」

瞬が 思わず息を呑んだのは、ハーデスの人類粛清計画に加担していた元冥闘士の 第二の人生設計の真っ当振りに 感動したからだった。
元冥闘士が就活に取り組むという、その一事だけでも前例のない画期的なことであるに違いないのに、カロンは その上 更に 前職(?)で培った技能を生かして、見事に転職を果たしてのけたのだ。
たとえ 道を誤っても、努力と才覚次第で立ち直ることは可能。
カロンの見事な転身は、世界中のすべての元悪者に希望を与える更生物語である。
瞬は、カロンの更生を心から喜び、感動した。
そんな瞬とは対照的に、氷河は、そもそも カロンの更生に懐疑的だったが。

「観光客相手にゴンドリエーレ? 貴様のように柄の悪い奴が漕ぐゴンドラに乗ろうとする観光客がいるわけがない。大方、無理矢理 ボロ舟に乗せて 法外な料金を脅し取っているんだろう。そういうのは 堅気の仕事とは言わんのだぞ」
氷河の決めつけに、さすがのカロンが むっとした顔になる。
カロンは、誇りを持って その仕事に取り組んでいるのだろう。
彼は、至極 真面目な顔で、彼の堅気な仕事の内容を 氷河に言い立ててきた。

「ヴェネツィアのゴンドリエーレは、協会への登録が必要なんだ。法外な料金を取ると、ゴンドリエーレの資格を剥奪される。しかも、俺のゴンドラは カンツォーネのサービス付き。言うまでもなく、受け取る料金は 適正料金の範囲内だ。実際、人気があるんだ。俺のゴンドラは、ほとんど揺れずに すべるように運河を進むから 全く船酔いしないと、観光客だけでなく地元民にも大人気だ」
「すごい。ああ、でも、あの亡者が うようよしているアケローン川で舟を操っていたカロンさんの技術をもってすれば、ヴェネツィアの運河なんて、つるつるに凍ったアイスバーンをすべっていくようなものなのかもしれないですね」
「俺は、陸にいる時間より 水の上にいる時間の方が長い生活を、20年以上 続けていたからな」

ここで『“つるつるに凍ったアイスバーンをすべっていくようなもの”という言葉は、安全や快適を示す比喩として、全く不適切である』と 瞬に指摘することは無意味だろう。
なにしろ、当のカロンが 瞬のそれを賛辞と受け取り 鼻高々でいるのだから、常識ある一般人が 横から口を挟んだところで どうなるものでもない。
そう判断して、一般人の(つもりでいる)氷河は 沈黙を守った。
その沈黙に乗じて、カロンが、氷河ではなく 瞬に向かって、彼の陳情(?)を開始する。






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