「その仕事で、ある時、俺は インドから来たっていう客を乗せたんだよ。いい服を着てたんで、金払いもいいだろうと――上客だと思ってな。だが、その客が何かおかしい――ここがおかしいと、具体的に指摘はできないんだが、とにかく 挙動不審だったんだ。だから、俺も 気をつけてはいんだが、その客、ゴンドラがジュデッカ島を横切って サン・マルコ広場の内湾に入りかけたところで、急に身体が ぐらついて、そのまま 運河に落ちてしまった。もちろん すぐに助けたんだが、どうも目が見えていないようなんだな。だが、目が見えていないことに 当人が気付いていないような……とにかく、変な感じだった」
「緑内障が進んで、片目だけ、大きく視野が欠けていたんでしょうか」
「いや。そうじゃなかった。舟に引き上げて、念のため 病院に連れていこうとしたら、それは困るって言うんだな。なんでも アントン症候群とかいう病気に かかってるとかで――」
「アントン症候群? 聞いたことのない病名だな」

氷河が横から口を挟んだのは、彼が カロンを信用しきれずにいるからだった。
人を疑うことをしたがらない瞬に、世の中には 眉に唾をつけて騙されないよう注意しなければならない話や人間が存在するということを、さりげなく知らせるため。
“詐病”という言葉も、この世には存在するのだ。
今回のカロンの話に限れば、アントン症候群は実在する病気だったのだが。

「アントン症候群っていうのは、脳の後頭葉の損傷によって起こる病気だよ。目が見えていないのに、患者は 見えていると主張する。脳の視覚野と言語を司る部分の連携不全によって起こる病気なんだ。症例は とっても少ないんだけど。僕も、実際に患者さんに会ったことは一度もない」
「意外と、紫龍が その病気持ちだったりしてな」
瞬が医師資格を取得したばかりだということを知らないカロンが、瞬に驚嘆の目を向ける。
彼自身は、そんな病気の存在など、患者当人に教えられるまで 全く知らなかったのだろう。
やがて 気を取り直して、彼は 彼の陳情(?)を続けた。

「よく知っているな。そう。そのアントン症候群だ。その傍迷惑な客は、見えてると言い張ってたが、自分がアントン症候群だってことは認識してて、インドから欧州にきたのは、その治療のため。ヴェネツィア観光を済ませてから、ドイツに向かう予定だったらしいんだが、ヴァッラレッソ通りを歩いている間に、パスポートや紹介状やらを すられてしまったらしくてな。いっそ『ベニスに死す』もいいかもしれないなんて 投げやりなことを、俺に向かって言ってくれた」
「認めたくない病気のために 日常生活に支障が出ることは、精神的な負担が大きいですからね。自分の認識と 現実の乖離が納得できないんですよ」
「ああ、そんなふうだった。で、俺としては、せっかくヴェネツィアに来て 俺のゴンドラに乗ってくれた客に、いい思い出を持って帰ってもらいたいじゃないか。だから、蛇の道は蛇ってやつで、パスポートを見付けてやったんだ。それが1年前」

「実に 感動的な話じゃないか」
氷河が 言うと、そうは聞こえないのだが、それは 揶揄でも皮肉でもなく、心底からの虚心な感想だった。
己れの人生に捨て鉢になっている人間に親切にしてやったところで、感謝してもらえるとは限らない。
逆に、余計なことをしてくれたものだと、迷惑がられるかもしれない。
そんな客のために、カロンは自身の時間と労力を割いてやったのだ。
しかも、その動機が、『せっかくヴェネツィアに来て 俺のゴンドラに乗ってくれた客に、いい思い出を持って帰ってもらいたい』から。

それが、冥王ハーデスの人類粛清計画に加担していた元冥闘士の振舞いなのである。
これが感動的でなかったら 何が感動的なのかと反問したくなるほど、カロンの親切は 感動を極めていた。
氷河に称賛されても、カロンは あまり嬉しそうではなかったが。
カロンは むしろ、アテナの聖闘士に称賛されるようなことをしでかしてしまった自分を悔いているようだった。
もとい、“悔いているよう”ではなく、カロンは実際に“悔いていた”のだ。
晴れ渡った聖域の秋の水色の空をバックに、彼は、両の拳を きつく握りしめ、唇をへの字に引き結んだ。
それから眉根を寄せて 眉間に深い縦皺を3本 刻み、最後に がっくりと肩を落としてしまった。
彼の身辺には、心なしか、どんよりした灰色の空気が漂っている。

「その客、治療の甲斐があって、病気が治って 目が見えるようになったそうなんだ。何とかかんとかっていうタンパク質と 何とかかんとかっていう酵素を投入して、ぶち切れていた 何とかと かんとかが繋がって、何とかなったらしい」
カロンの説明は 全く説明になっていなかったが、それでも意味は通じた。
少なくとも、医師ではない氷河には その説明で十分だった。

「5日前、ゴンドリエーレの協会事務所に、その客から、俺に会って 直接 礼を言いたいと連絡があったそうなんだ。で、協会の事務員が『きっと喜びます』とか勝手に答えて、俺の名を教えてしまったらしい」
「ツラに似合わぬ美談だ。よかったじゃないか。貴様、立派に更生したんだな。笠地蔵に宝石姫。セオリー通りの報恩説話だ。善行のご褒美をもらって、めでたしめでたし。で、貴様に 褒美をくれる 笠地蔵は、どんな おっさんなんだ。跡継ぎのいない金持ちの爺さんか」

氷河が手の平を返したように カロンへの態度を変えたのは、彼の話が『めでたしめでたし』で終わったからだった。
めでたしめでたしで終わったのだから、カロンは現在 いかなるトラブルも厄介事も抱えていないということになる。
つまり、彼は、瞬に何らかの頼み事をしに来たのではないのだ。
カロンに 瞬の手を煩わせる気がないのなら――単なる近況報告のために来ただけなのであれば――氷河としても、彼に目くじらを立てる必要はなかったのである。
が。






【next】