「爺さんじゃない」
「年寄りじゃないのか? じゃあ、インドのIT企業の現役社長とか?」
『ベニスに死す』の主人公の老教授を連想して尋ねた氷河に、カロンは横に首を振ってみせた。
そして、思いがけない答えを返してくる。

「女なんだ」
「金持ちの婆さんか」
「20代半ばの」
「なに……?」
それは、氷河には 想定外の事態だった。
カロンの横に若い女性が立っている場面を想像しただけで、気の毒な気持ちになる。
この場合、気の毒に感じるのが、若い女性ではなく カロンの方だということが、氷河には より重大な問題であるように思われた。

「彼女は、俺との再会を熱望しているそうだ。俺の声で、俺を ハンサムで陽気なイタリア男だと決めつけているらしいんだ」
「ハンサムで陽気なイタリア男? イタリア男ってところしか合ってないじゃないか!」
口を突いて出てしまった氷河の本音に 何も言い返してこないところを見ると、カロンは この事態に かなり深刻な危機感を抱いているのだろう。
だが、こればかりはアテナの聖闘士の力をもってしても、どうすることもできない。
小宇宙の力では、カロンをハンサムにしてやることも、陽気な気質にしてやることもできないのだ。

「きっと、俺の本当のツラを見たら、彼女はがっかりするだろう」
「それは そうだろうが、だからといって、どうすることもできないだろう」
この件に関して、“どうすることもできない”以外の答えはない。
“どうすることもできない”ことは、どうにも仕様がない。
それが 氷河の答えで結論だったのだが、それは 氷河だけの答えで、氷河だけの結論だった。
カロンには、別の結論、別の答えがあったのである。
であればこそ、彼はイタリアからギリシャにまでやってきたのだ。
別の結論、別の答え――カロン考案の解決策こそが、実は 彼の顔の造作よりも重大かつ困難な問題だった。

「だから、身代わりを頼みたいんだ」
「誰に」
「アンドロメダ――バルゴに」
「誰の」
「俺の」
氷河の呼吸が 確実に2分以上 止まったのは、彼がショック死したからではない。
カロン考案の解決策に驚いたからでも、呆れたからでもない。
そうではなく――氷河に呼吸することを忘れさせたのは、カロン考案の解決策への怒りの感情だった。

「しゅ……瞬が 貴様の身代わりだとぉっ !? 貴様、本気で――いや、正気で言っているのかっ。神をも恐れぬ所業とは、まさに このこと! 貴様の身代わりを瞬にさせるなんて、ゴリラの身代わりをウサギにさせるようなものだ! てっぺん禿げコンドルの身代わりを スミレの花にさせるようなもの。悪魔の身代わりを天使にさせるようなものじゃないかーっ !! 」
反論があるなら言ってみろと言わんばかりの形相でカロンを睨みつけた氷河に、カロンは どんな言葉も返してはこなかった。
うんとも すんとも言わず、音のない溜め息さえ返してこない。
自分が無理を言っていることは、カロンも重々 承知しているらしい。
瞬より15センチ以上 背の高い中年男の頭が、瞬のそれより低いところにある。
でかい図体の男が しおれ項垂れている様は、なかなかに哀れを誘うものがあった。
カロンからの反論がないので、氷河も 怒声を重ねることができない。

氷河は、基本的に、男女を問わず 大言壮語する人間が嫌いで、自身を過大評価する人間が嫌いだった。
自信過剰な人間も 自意識過剰な人間も嫌いなのだが、その反動なのか何なのか、分をわきまえている人間には強く出られない癖(癖と言っていいだろう)があった。
今 水瓶座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士の前に 肩を落として立っている元冥闘士は、正しく“分をわきまえている男”。
そのせいで、氷河は彼に(あまり)きついことは言えなかったのだ。

とはいえ、カロンが瞬を自分の身代わりにすることは 許容できない。
仕方がないので、氷河は、哀れな不細工中年男に妥協案を提示してやったのである。
すなわち、
「人生に捨て鉢になっていた人間を立ち直らせ、生きる気力を 取り戻させてやった善意の人の姿として、瞬ほど ふさわしいものを持つ者はいないという、貴様の考えは正しい。実に妥当、極めて適切だ。俺も そう思うぞ。だが、瞬と貴様では あまりにタイプが違いすぎるだろう。貴様の身代わりなら、まだ、俺や紫龍の方が――」

カロンの身代わりを務めるのが、地上で最も清らかな魂の持ち主であるところの瞬だから、その身代わり計画を 神をも恐れぬ所業だと思うのであって、カロンの身代わりを務めるのが 瞬でさえなければ、ぎりぎり許容できないこともない――人助けと思うこともできなくはない。
それは、そういう意味での妥協案だったのだが、カロンは氷河の妥協案を最後まで言わせなかった。
「それは駄目だ。貴様やドラゴンは駄目」
俯かせていた顔を上げ、カロンが きっぱりと 氷河の提案を拒絶してくる。
それで、氷河はピンときた。

「貴様が助けた その女ってのは 美人なんだな」
「な……なぜ わかる」
カロンが顔を引きつらせて、後ずさる。
「わからいでか」
そんなカロンを、氷河は蔑むような目で見やった。

なぜ わかるのかが わからなかった瞬が、そんな二人を交互に見やりながら首をかしげる。
「どうしてわかるの?」
「おまえがよくて、俺や紫龍が駄目となったら、それしか考えられないだろう」
尋ねてきたのが瞬だったので、答える労力をケチることも思いつかず、氷河は ほとんど反射的に 正直な答えを返した。
その答えの意味が理解できなかった瞬が、更に深く首をかしげる。
その仕草が年齢不詳すぎて――到底、医師資格を取得できる年齢の人間には見えなくて――、氷河は 一瞬 軽い混乱に襲われてしまったのである。
今は 瞬の年齢不詳振りに鼻の下を伸ばしていていい時ではないことを思い出し、急いで目許に力を入れる。

「つまり、おまえがカロンの身代わりをすれば、問題のご婦人は おまえに、天上の清らかな天使に対するような好意を抱くだろう。だが、俺や紫龍は、言ってみれば、俗な地上世界に住む ただの美形男だからな」
「?」
「おまえとカロンでは、住む世界が違うんだ。次元もレベルも違う。しかし、俺とカロンは同じ世界の住人だ。レベルは違うが、次元が同じなんだ」
「よく わからないんだけど……僕も氷河も同じ世界に生きている同じ人間でしょう?」
「憎からず思っている女が、綺麗な花に心惹かれるのは許せるが、人間の男に好意を持つのは不愉快。そういう心理だ」
「それは……」






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