そこまで噛み砕いた説明を受けて、瞬はやっと カロンと氷河だけで わかり合っていた会話の意味を把握することができたのである。 「それは僕に男性的魅力がないということ?」 単刀直入に 氷河を問い質した瞬に、 「天上的で崇高な魅力に あふれているということだ」 氷河からは、天上的と言っていいほど空々しい答えが返ってきた。 「……」 問い質したいことは――否、問い詰めたいことは いろいろあったのだが、その作業をカロンの前で行なうわけにはいかない。 氷河に言いたい言葉を、今は呑み込んで、瞬は カロンの方に向き直ったのである。 カロンが抱えている事情と、彼の依頼内容は わかった。 しかし、それは、決して受け入れられない――力を貸してはいけない頼まれごとである。 瞬は、カロンの前で、小さく左右に首を振った。 「お力にはなりたいと思いますが、それをしてしまったら、僕たちは その方を騙すことになります。ですから――」 「頼む。俺は彼女を がっかりさせたくない」 「がっかりするだなんて……」 アントン症候群。 実際には見えていないのに、見えていると言い張る病気。 “彼女”が1年前、カロンのゴンドラに乗った時、カロンの歌を聞いた時、その案内を聞いていた時、見えていないことを認めずに運河に落ちてしまった時、カロンに救われた時、自分の病気のことを彼に告げた時、そして、盗まれたパスポートを 親切なゴンドリエーレに取り戻してもらった時。 カロンの姿が見えていない彼女は、見えていないカロンの姿を 見えているものとして 自身の脳裏に思い描いていたはずである。 その姿が 自分に似ているとは、瞬には どうしても思えなかった。 「その方は、あなたの姿形ではなく、あなたの親切な言動と優しい心に感謝して感動して、あなたに会いたいと願っているんでしょう? だったら――」 だったら、姿形は関係ないはず。 そう言おうとした瞬を、カロンは その視線で遮ってきた。 そして、彼にしては 力のない しおれた声で言う。 「俺が彼女を助けたのは、ただの気まぐれだ。あれは、本来は、おまえみたいに綺麗な目と綺麗な顔を持つ人間がやるべきことだったんだ。なのに、彼女の目が見えないと知って、安心して――油断して、俺は つい柄にもないことをしてしまった。俺は、彼女の夢を壊したくない」 カロンの卑屈の理由が、瞬には わからなかったのである。 つまり、カロンの考える、綺麗な顔と親切の関連性が。 瞬は 氷河を美しいと思っていたが、それは自分が氷河の優しさを知っているからだと思っていた。 アテナを 美しいと思うのも、同じ理屈。 ハーデスやアフロディーテを 氷河ほど美しいと思えないのも、氷河のような優しさを 彼等が持っていないから――氷河のような優しさを示してもらったことがないから。 そう考えている瞬には、カロンの卑屈が どうにも理解できなかったのである。 「僕は、アケローン川での あなたの 優しく潔い振舞いに心から感謝しました。姿形なんか関係ありません。それ以前に、あなたはとても美しいですよ。あの時も今も」 「それは、おまえが特別な目の持ち主だからだ」 「そんなこと、ありません。たとえ そうだったとしても――そのご婦人も 僕と同じ目の持ち主かもしれない」 「おまえみたいな奴は、そうそう転がっているもんじゃない」 「じゃあ、あなたは、その方が 若く美しい女性でなかったら、親切にしなかったんですか? 彼女を助けなかったの?」 「人による。実際、俺は そこのキグナスやペガサスには親切にしなかった」 「氷河は僕より綺麗ですよ」 「おまえの目は やっぱり変だ。……おまえが どう言おうと、俺は醜悪な顔の 見苦しいおっさんだ。それが客観的事実だ。醜いものを見過ぎて、目も濁りきっている」 「そんなことありません!」 瞬が どれほど必死に訴えても、カロンの中にある卑屈な思い込みは消えてくれない。 あげく、氷河までが、まるで仲間の無理解を弁明するように、 「瞬は傲慢なわけでも、皮肉を言っているわけでもないんだ。瞬も一種の視覚障害を抱えている人間だからな」 などという呟きを カロンに呟くのだ。 カロンに わかってもらえないことが、瞬はじれったくてならなかった。 氷河の言う通り、瞬は 傲慢や皮肉で カロンを美しいと言っているのではなかった。 そんなつもりは毛頭ない。 自分を醜いと思ったこともないが、取り立てて美しいと思ったこともない。 氷河が やたらと自分を褒めるのも、自分が氷河の仲間で、自分が氷河に対して抱いている信頼や好意を 氷河が感じ取ってくれているからなのだと思っていた。 アケローン川でのカロンも 同じだったはずである。 あの川に浮かぶ舟の上で、カロンはアンドロメダの聖闘士の瞳には言及したが、顔の造作など 気に掛けていなかったではないか。 人の外見に美醜がないとは言わないが、ある人を美しいと感じるのも 醜いと感じるのも、視覚ではなく 心の作用だと思う。 人となりを知らない人は“美しい人”でも“醜い人”でもなく、ただ“知らない人”なのだ。 “顔の造作が整っている人”と思うことはあっても、“美しい”と感じることはない。 瞬は そうだった。 「考え直してください。僕がカロンさんの身代わりをすることの是非は さておくとしても、そもそも 僕があなたの身代わりをすることは、現実的に 無理でしょう。その方は、あなたの声を憶えているでしょうし」 「そこは、1年前に会った時は、風邪をひいていて、喉が がらがらだったことにすればいい」 「身長だって違います」 「1年前は上げ底靴を履いていたことにすればいい」 「どうして、そんな無理を通そうとするんです……! そんな無茶な身代わり、絶対に ばれます。ばれない方がおかしい」 「たとえ身代わりだということが ばれても、彼女は おまえと知り合えたなら、そのことに 満足すると思うんだ。ヴェネツィアに来て、癒しの天使ラファエルに出会えたとな。俺では駄目だ」 「そんな……」 なぜ カロンでは駄目なのか。 なぜ 彼は ここまで自分の価値を過少に見、卑屈になり、自分を卑下するのか――。 瞬とて、そういう気持ちになった経験がないわけではなかった。 たとえば、聖闘士になる前、アンドロメダ島に送られる以前。 あの頃の瞬は、“瞬”ではなく、“兄に守られるもの”“兄がいなければ生きていられないもの”“兄のお荷物”だった。 自分の すべてに自信が持てなかった。 『おまえは 喧嘩は弱くても、優しいから』 『おまえは、ほんとに 細かいところにまで気がまわるよな』 『お嬢さんより、おまえの方がずっと可愛いぞ』 仲間たちは、沈み落ち込んでいる泣き虫の仲間を、いつも励ましてくれていたのに、その励ましが 瞬の卑屈を消し去ることはなかった。 そんな美点は、当時の瞬には全く価値のないものだったから。 あの頃の瞬にとって唯一 価値があるものは“力”だった。 “兄の負担にならないだけの力を持つ自分”でない自分は、無価値だったのだ。 では、今のカロンにとって“価値あるもの”は何なのだろう――? 彼を これほど極端な視野狭窄に陥らせている、唯一 彼にとって 価値があるものは。 「カロンさん」 問うて 答えを得られる可能性は小さいような気もしたが、問うてみないことには始まらない。 カロンの名を呼んだ瞬に、だが カロンは一方的に彼の願いを押しつけてくるだけだった。 「人を騙すのが そんなに嫌なら、俺の知り合いとして 彼女に会って、俺は死んだことにしてくれ」 「そんなことできません」 「貴様が死んだと報告するだけでいいなら、俺がやってやるぞ」 「だから、おまえの顔じゃ駄目なんだ」 カロンはどうしても 彼の代理を瞬にさせたいらしく、氷河の助力は きっぱりと撥ねつける。 しかも、その理由が“顔”。 カロンは どうあっても、男性的魅力に乏しい( = 天上的で崇高な魅力に あふれている)瞬の顔がいいらしい。 氷河にとっては、卑屈どころか、それこそが 許し難い傲慢。 氷河は半眼になって カロンを睨めつけた。 「貴様は、自分が瞬の顔にふさわしい親切をしたつもりか。言っておくが、溺れている女を助けて 盗まれたパスポートを探し出してやるくらい、俺だって 普通にするぞ。相手が、その親切に値する人間なら」 「俺は ただ、できる限り綺麗な思い出を 彼女にプレゼントしたいだけだ。思い出は綺麗な方がいいだろう。どうせ、もう二度と会うことはないんだから」 「……」 元 天間星の冥闘士、今はヴェネツィアのゴンドリエーレの殊勝な(?)言葉に、氷河が眉をひそめる。 何事かを探るような視線を カロンの“目”に投じ、氷河は そのまま黙り込んでしまった。 それきり 氷河もカロンも口を開こうとしない。 仕方がないので、瞬は、いったん カロンの依頼を引き受けることにしたのである。 アテナの聖闘士には カロンを説得できなくても、問題の女性になら、それができるかもしれない。 むしろ、それができるのは その女性だけのような気がした。 幸い、このところ地上は平和。 黄金聖闘士が聖衣を身にまとう必要がないほど、平和なのだ。 「いつまで経っても 堂々巡りで埒が明きませんから、カロンさんのご要望通り、僕が代理として その方に会います。カロンさんは 他のお仕事が入って どうしても会いにこれなかったと伝える。それでいいですね」 「瞬。わざわざヴェネツィアまで行くのか」 「日本よりずっと近いよ」 「それはそうだが……」 氷河は あからさまに『行かない方がいい』と思っている顔を、瞬に向けてきた。 だが、同時に、彼は、『行くしかない』とも思っていたのだろう。 氷河は、最終的に、 「俺も行くぞ」 と言って、瞬のイタリア行きを容認してくれた。 |