問題の女性は、豊かな黒髪と漆黒の瞳の持ち主だった。 アーリア人種の血の濃い、インド美人の典型。 ヒンディー語だけでなく 英語もイタリア語もドイツ語もできるという話だったので、経済的に ゆとりのある家庭に生まれ、高い教育を受けたのだろう。 漆黒の大きな瞳が澄んでいるのは、もしかしたら これまでの彼女が 見るものすべてを――実際には見えていなかったもの すべてを――彼女の心の中で 美しいものに置き換えてきたからなのかもしれない。 瞬は、彼女を“美しい”と思った。 彼女に実際に会って やっと、瞬は カロンの卑屈の原因を知ったのである。 それは“恋”だったのだ。 カロンは、彼女に恋をして、その恋のせいで 彼の価値観は一変してしまったのだ。 恋ほど 人間を へりくだらせるものはない。 彼女に会う前から、氷河はカロンの卑屈の原因に気付いていたのだろう。 実際に カロンの思い人に会って、氷河はカロンの恋が実る可能性を ほとんど0と見積もったらしい。 待ち合わせ場所にしていたサン・マルコ広場の入り口のギャングウェイで、彼女の顔を見るなり、氷河は 瞬の隣りで盛大な溜め息を洩らした。 「はじめまして。僕たち、カロンさんに言づてを頼まれて、代理で来ました」 代理と知らせる前から、彼女は、氷河と瞬がカロン当人でないことに気付いていたらしく、困惑した口調で、 「カロンさんは?」 と尋ねてきた。 「どうしても断れない緊急の仕事が入って――くれぐれもよろしくと言っていました」 「では、カロンさんの ご自宅を教えていただけませんか」 「すみません。僕たちは彼に伝言を頼まれただけなので、勝手に教えるわけには――」 「じゃあ、いつなら会えるでしょう? 私は ぜひカロンさんに直接 会って、お礼を言いたい。そのために、もう一度 この街に来たんです。彼の仕事の都合がつくまで、何日でも待ちます」 たどたどしくはなかったが、母国語でないせいか、彼女のイタリア語は少々 ぶっきらぼうだった。 だが、その ぶっきらぼうな物言いが かえって、カロンとの再会を願う彼女の気持ちの強さを伝えてくる。 瞬は、つい嬉しくなって、 「ほんとに?」 と、彼女に確認を入れた。 彼女が力強い首肯を 瞬に返してくる。 では、彼女が会いたいと切望しているのは、人生に捨て鉢になっていた彼女を立ち直らせ、生きる気力を 取り戻させてくれたゴンドラ漕ぎの男性で、その善行に似つかわしい綺麗な顔の持ち主ではないのだ。 彼女は、綺麗な顔の持ち主に会いたいのではなく、カロンに会いたいのだ。 そう確信できることが、瞬に希望を運んできた。 「ぜひ、そうしてください。僕が必ず――」 『彼を説得します』と言ってしまうと、カロンが彼女との再会を望んでいないと、彼女に誤解を与えてしまうかもしれない。 言おうとした言葉を、瞬は その直前で喉の奥に押しやった。 その一瞬の間隙を突いて、氷河が口を開く。 それが氷河の優しさで、氷河なりの誠意なのだということは、瞬にも わかっているのだが、氷河が彼女に告げたのは、僅かな婉曲も いかなる潤色も加えられていない――身も蓋もない赤裸々な事実だった。 「やめておけ。あいつは 不細工なおっさんで、自分の不細工なツラで、あんたをがっかりさせたくないから、あんたに会うつもりはないそうだ。あいつは、あんたに綺麗な思い出だけを持って、この街を離れてほしいんだ」 美しく豊かな黒髪の女性が、氷河に知らされた事実に驚き、目をみはる。 彼女が 次に どんな感情の色を瞳に浮かべるのか、それを見るのが恐くて、瞬は反射的に両目を閉じてしまったのである。 瞬の横で、氷河は、事実より ひどい暴言を言い募る。 「わかったら、あいつに会うのは諦めろ。あいつの不細工さは、並大抵のものじゃない。この世界でワースト3とまでは言わないが、ワースト100には確実に入る筋金入りの不細工男だ」 「氷河……!」 氷河の乱暴な言葉、声。 しかし、目を閉じていれば、それがカロンのための乱暴な言葉と声なのだということが わかる。 瞬には、それがわかった。 わかるからこそ――瞬は目を開けて、彼女を見るのが恐かったのである。 |