エジプトのルクソール近郊の王家の谷にある古代エジプトの王ツタンカーメンの墓は、おそらく 世界で1、2を争うほど有名な遺跡だろう。 その有名な遺跡で、墓の壁の裏側に隠し部屋が存在すると主張するレーダー技術者と、そんなものは存在しないというエジプト学者の間で論争が起こっている。 ツタンカーメン王の遺跡に、もし 隠し部屋があれば、そこには 王の義母ネフェルティティの墓と埋蔵品がある可能性が高い。 しかし、隠し部屋がなかったら、存在しないものを求めて貴重な遺跡を 無益に破壊する愚を犯すことになる。 両陣営の主張は 真っ向から対立。 どう決着がつくのかを、世界中が見守っている――。 事の起こりは、その報道だった。 エジプトで起こっている その論争の話を 沙織から聞いた星矢が、 「お宝がある可能性が 少しでもあるんなら、探せばいいのにな。黄金のマスクが もう一つ二つ見付かったら、大儲けじゃん。それで遺跡が ちょっとくらい壊れたって、別に そこに住んでる人がいるわけでもないんだろ?」 と、僅かな希望に賭けるのが大得意なアテナの聖闘士らしいことを言い、行きがけの駄賃とばかりに、 「聖域にはないのかよ。そんな お宝が眠ってそうな場所は」 と、アテナに問うた。 アテナは、にっこり笑って、 「もちろん、あるわ」 と答え、その場所の発掘調査を、彼女の聖闘士たちに命じたのである。 アテナが示した“お宝が眠っていそうな場所”は、アテナ神殿の最奥にある地下の一室で、発掘調査に取りかかったアテナの聖闘士たちは、調査開始から30分後には、 「俺たちは、もしかすると、アテナに物置の掃除をさせられているだけなのではないか?」 という疑念を抱くことになった。 「紫龍もそう思う? 僕も、さっきから、そんな気がしてたんだけど」 古ぼけた箱の中から、見るからに量産型の素焼きの皿を取り出していた瞬が、その手を止めて、別の箱から木製の杯を取り出していた紫龍の方に視線を巡らせる。 「ここには、少なくとも黄金のマスクや 高価な宝飾品が眠っている可能性はないぞ。そもそも 金属の匂いが全くしない。あるのは、埃をかぶった土製や木製の食器や布類ばかりだ。俺が察するに、ここは 宴会道具を仕舞っていた物置だな。収納してから2000年は経っているかもしれないが、2000年なんて、考古学的には やっとアンティークに足を踏み入れたレベルでしかない」 という推測を ぶち上げたのは、この発掘調査に 最初から乗り気でなかった氷河だった。 彼は、物置部屋の壁際に置かれていた棺桶サイズの木の箱を椅子代わりにしていた。 氷河の中には、その蓋を開けてみようという考えさえ、湧いてこないらしい。 50平米ほどの広さの部屋には、氷河が椅子にしているものと同じサイズの木の箱が2、30箱ほど積まれていた。 装飾らしい装飾のない素朴な作りの木の箱の中には、木製や土製の食器の他に、擦り切れた茣蓙や古い衣類や幕が収納されている。 それらは もしかしたら1000年2000年単位の歴史を背負った、貴重な生活用品なのかもしれなかったが、現代に生きている青銅聖闘士たちの価値観では、ゴミもしくはガラクタと呼ぶしかないようなものばかりだった。 「宴会道具置き場でも何でもいいんだけどさ、せめて 小銭くらい落ちてないのかよ。2000年も昔の古銭なら、別に金貨でなくても、意外に価値があるかもしれない」 この発掘調査に最も意欲的だったのは、意外にも 星矢だった。 遺跡発掘調査を始めたからには、たった一つでもいいから、何か価値のあるものを見付けたい。 見付けないことには、調査の止め時がわからない。 走り出して止まらなくなった蒸気機関車のように、棺桶ボックスの中を 引っ掻き回していた星矢が、ついに宴会道具ではなさそうなものを見付けたのは、詰まれていた棺桶ボックスの最後の一つの蓋を開けた時だった。 「何だ、これ」 箱の中にあるものを しげしげと眺めていた星矢が、やがて顔を上げ、 「瞬、おまえ、絵のモデルなんかしたことあるか?」 と、瞬に尋ねてきた。 尋ねながら、瞬からの答えを待たずに 箱の中から 星矢が取り出した物は、縦が50センチ、横が30センチほどの1枚の板。 板には、絵が描かれていた。 しかし、板には帆布が貼られていない――つまり、キャンバスではない。 それは、直接 板に描かれている、いわゆる板絵だった。 キャンバスが普及する15世紀以前には、そういうものが一般的だったということは知っていたが、実物を見るのは、青銅聖闘士たちは これが初めて。 彼等が知っているギリシャの“古い絵”は 壁画や壺絵ばかりだった。 が、今 この場における最大の問題は、その絵がキャンバスに描かれたものではないことではなかった。 もちろん、それが板絵であることも 問題ではない。 問題は、その板に描かれている絵のモチーフだった。 板絵には、亜麻布とおぼしきドーリア式キトンを身に着けた少女の肖像が描かれており、その姿が瞬にそっくりだったのだ。 顔の造作も、体つきも、男子にしては長く、女子にしては短い髪も。 何より、その表情、印象、醸し出す出す空気が、瞬に酷似――否、瞬のそれだったのだ。 板絵に描かれている人物は、少女のようだったが、少年のようでもあった。 どちらとも判別できない姿が、作品を不思議な雰囲気で覆っている。 清らかさと優しさが 明瞭に感じられる表情の奥には、強さと厳しさも 見え隠れしていて、そのことからしても、この絵が瞬(に似た人物)の姿形を写し取っただけのものではないことは明白だった。 色数は少ない。 遠近法も かなり原始的である。 おそらく零点透視図法――遠くのものが小さく描かれている程度。 その絵が かなり古い――もしかすると 2000年では済まないほど古い――道具と技術で描かれたものであることには 疑念を挟む余地がなかった。 だが、それにしては、異様なほど絵の保存状態が良い。 良すぎるほど良い。 木の板には、ヒビの1本も入っておらず、絵具が剥げている個所も全くなかった。 ――そんなことが あり得るだろうか? 「さすがに 古代ギリシャのものではないでしょう。そんな時代に、こんなに写実的な絵が描かれていたなんて、考えられない」 と瞬が呟いたのは、その絵が レオナルドやティツィアーノ並みに――否、写真並みに細密な肖像画になっていたからだった。 否、むしろ、それは、白黒写真に色を乗せて作ったような肖像画だったのだ。 しかし、絵である。 写真では決して捉えることのできない空気――人間の内面が、その肖像画には描かれていた。 「確かに、おまえに似ているな」 星矢が棺桶ボックスの上に置いた絵を見おろしながら、氷河が呟く。 氷河は、瞬以外の何かが 瞬に似ていることを、滅多に認めない。 その氷河が そう言うからには、この絵に描かれている人物と 自分は 余程 似ているのだ――と、瞬は思った。 瞬自身は、あまり その意見に賛同できなかったのだが。 「そうかな。でも、これ、少女の絵でしょう。女神――ニンフかな」 努めて婉曲的に、この絵の人物と自分は似ていないと思っていることを 伝えようとした瞬に、氷河からは、 「男の絵だったら、おまえに似ているなんて思わない」 という極めて冷酷な(?)答えが返ってきた。 「……」 氷河は、瞬を貶めているわけではない。 単に事実(彼にとっての事実)を言葉にしただけで、彼自身は おそらく、瞬を貶めるどころか 逆に褒めているつもりなのだ。 それがわかっているので、瞬は氷河に対して怒りを露わにすることができなかった。 結局 瞬は、その件についてのコメントを避けるために、箱の上に置かれていた板絵を手に取り、絵以外の部分を調べることを始めたのである。 板の裏に文字が書かれていた。 「アルファ、パイ、イプシロン、ラムダ、ラムダ、エータ、ファイナルシグマ――アペレス……って読むのかな。人の名前だよね。画家のサインかな」 「聞いたことのない名前だけど、有名な絵描きの絵じゃなくたって、古いもんなら、結構 いい値で売れるかもしれないぜ。何はともあれ、超々美少女の絵なんだし。これって、つまり、あれだろ。古代ギリシャの瞬の萌え絵」 「萌え絵というには、少々 美しすぎないか」 氷河の呟きは、星矢に無視された。 氷河は 好意ゆえに瞬に冷酷だが、星矢は 氷河に輪をかけて 無自覚に残酷である。 しかも、やたらと明るい。 古代ギリシャの萌え絵のモデルに似ていることにされてしまった瞬は、言いたいことを すべて、溜め息の中に閉じ込めることしかできなかった。 |