それから3日間、画家は幸福そうだった。 この絵が、自分の生きた証。 この1枚の絵に 自分の人生のすべてが凝縮され、この絵は 誰かに憎まれ焼かれることなく、永遠に残る。 そう信じて 絵を描けることが、画家は嬉しくてならないらしい。 人類の歴史上、他に類を見ないほど広大な帝国を築いたアレクサンドロス大王。 しかし、彼の築いた大帝国は、彼の死と同時に分裂し、大王は 結局 その名以外に何も残すことができなかった。 だが、画家は1枚の絵を残すのだ。 故郷を遠く離れて遠征に次ぐ遠征。 戦いに次ぐ戦い。 大王の果てのない夢に付き合わされることに倦んだ部下たちの反抗で、大王のインド遠征は途中で断念せざるを得なかった。 そんな経験をしたというのに、大王は 懲りもせず アラビア遠征を計画中らしい。 「その計画に 目途が立つまで、陛下は 私のことなど思い出さない。陛下が 次に この部屋にやってくるのは、次の遠征で 何人の王と領主を自分に従えるかを決めた時だ。その数の分の肖像画を描くように命じるために、陛下は ここに来る」 画家は、今は その命令を待って待機中の身で、この部屋にあるアレクサンドロス大王の肖像画は、彼が手遊びに描いたものであるらしい。 大王の絵は描きたくないが、王以上に描きたい対象に出会えずにいた画家に、瞬との邂逅は 大いなる神の恩寵だったらしい。 瞬の絵を描きながら、画家は しきりに氷河を羨ましがった。 「これほど稀有な姿と瞳を持ちながら、瞬さんは 自分の美しさを自分の目で直接 見ることはできないんです。鏡を使って、間接的に見ることができるだけだ。だが、氷河さんは、自分の目で 瞬さんの姿を 直接見ることができる。氷河さんは 幸せだ。この地上世界で最も幸運な人だ。こんな美しい人と 常に一緒にいられるなんて。本当に羨ましい」 画家は、突然どこからともなく現れた氷河と瞬を、恋人同士か それに準ずる仲の二人だと信じているようだった。 そう信じている画家から向けられる羨望の眼差しには、氷河も悪い気はしなかったのである。 だから、氷河は、少なくとも 彼は画家の仕事の邪魔はしなかった。 画家の言葉通り、アレクサンドロス大王がアトリエに来ることはなかったが、またしても遠征の計画を立てている王に対する臣下たちの不満は、画家の耳にも入ってくる。 画家は、大王のカリスマ性が失われつつあることを 不安に感じているようだった。 部下たちの反対に会って、インド遠征を中断した大王。 部下たちの意見を聞き入れて、自身の計画の遂行を諦めるようなことなど、以前の王なら 考えられないことだったらしい。 その不安を創作意欲に変換し、情熱を傾けて、画家は、瞬の絵を描き続ける。 が。 氷河たちに見覚えのある絵が 完成に近づくにつれ、画家の中には、別の不安が生まれてきたようだった。 そもそも 画家が この王宮にアトリエを構えていられるのも、大王の意思一つに拠ってのことなのだ。 大王の権威権力が失われた時、大王の肖像以外の絵なら安全とは限らない。 万一の時、瞬の絵を守り抜けるのか――それが、画家の中に新たに生まれてきた不安らしかった。 「この絵を描き上げてから――もし、この国に政変が起きて、あなたが この王宮にいることができなくなり、絵の保全に窮することになったら、アテナイに行ってください。アテナイの西方に スターヒルという丘があります。どこからでも見えるけれど、決して辿り着くことのできない険しい丘――アテナイの町の住人なら、きっと知っているはずです。その丘の見えるところで、アテナの名を呼んで。必ず、誰かが現われますから」 瞬が画家に そう告げたのは、画家の不安を払拭するためだったろう。 それが 図らずも、絵の所有権をアテナと聖域に帰すための指示になっていることに、氷河は苦々しさを感じることになったのである。 結局、すべてがアテナの望み通りに運んでしまうのだ。 氷河の顔が渋くなるのも致し方ない。 「アテナ……?」 「ええ。現れるのはアテナではなく 女神に仕えている誰かだと思うんですが――その人に、『2400年後のアンドロメダの絵を、アテナに献上したい』と言って、その絵を渡してください。それで、あなたの絵は確実に後世に伝えられます」 「2400年後のアンドロメダ――」 アテナは、知恵と戦いの女神の名。 アンドロメダは、アレクサンドロス大王が征服したペルシャ王国の祖であるペルセウスに連なる王女の名。 瞬から知らされた名は、画家には思いがけないものだったのだろう。 絵筆を持つ手を止めて、彼は瞬に尋ねてきた。 「あなたは芸術の女神や芸術の神ではなく、アテナが お遣わしくださった方なのか」 画家に問われたことに 瞬は答えを返さなかった――答えようがなかったから。 画家も、何としても答えを手に入れようとはしなかった。 「私は、私が生きた証を欲していた。私の生きた証を この世界に残すことを願っていた。だが、物など残して何になるだろう。あなたを描いている今、私は 途轍もない高揚感を感じている。私が生きた証など、私の心の中にあればいい。形あるものは、いつか失われる。あなたの素晴らしい瞳に出会い、その瞳を絵に残すことに挑戦できただけで、私は この世に生まれ、生きてきた甲斐があった。今では、私は そう思っている。私は、たった今も、自分に与えられた生を 素晴らしい高揚感と共に生きている。すべて、あなたのおかげだ。ありがとう」 これまで自分が生きた証を残すことに固執していた画家の心境が そんなふうに変化したのは、もしかしたら、画家が初めて自分の作品として満足できる絵を描くことができたからなのかもしれない。 ほぼ完成し、あとは保存のためにワニスを塗るだけの状態の絵を、まるで瞬を抱きしめる代わりに そうするように 愛しげに、画家は見詰めた。 「2400年後、この絵は、再び あなたに会えるのだろうか。物の不滅を望む気は もはやないが、もし そうなのだったら、嬉しい」 「え……」 「その時、できれば、この絵はずっと あなたの手許に置いてください。たとえ 私の画業が 多くの人々の記憶に残らなくても――そんなことより、私は、私という画家がいたことを あなたに憶えていてほしい。私と あなたは、この絵によって いつまでも結びつけられるのだ――」 画家は、瞬と氷河を どういう存在だと考えているのか――。 自分の描いた絵と 瞬の2400年後の再会を、画家は本気で 切望しているようだった。 その再会を、実現し得ることと考えているようだった。 画家が、あまりに熱っぽい目をして そんな夢を語るので、瞬は つい、『2400年後、僕は、あなたが描かれた この絵に再会しますよ』と言ってしまいそうになったのである。 さすがに そう言ってしまうわけにはいかず、瞬は、 「会えたら嬉しいですね」 と呟くに留めたのだが。 瞬自身は、自分が生きた証を この世界に残したいと思ったことはなかった。 ただ、世界が平和であり続け、そこに生きている人々が できるだけ幸福であってくれればいいと願うだけで。 「まさか、人生も たそがれの この歳になって、こんな幸福に出会えるとは思っていなかった。ありがとう」 「僕は何も――」 何もしていないが、アンドロメダ座の聖闘士と出会えたことで、画家が少しでも幸せな気持ちになってくれたのなら、それこそが瞬の“生きた証”である。 「僕の方こそ、思いがけない贈り物をいただきました。どうも ありがとう」 地上の平和を乱す敵と戦い、敵を倒す以外のことで、人を幸福にできたのなら、アテナの聖闘士としても、一人の人間としても、これほど嬉しいことはない。 画家の『ありがとう』に「ありがとう」で答え、瞬が微笑むと、古代ギリシャ随一の画家は、溜め息混じりに、 「本当に、氷河さんが羨ましい」 という言葉を繰り返した。 |