「こ……ここは、どこだ」
と言って、辺りを見まわすところを見ると、250年近い時間と9500キロ以上の距離を一瞬で移動したにもかかわらず、オデッセウスの意識は明瞭のようだった。
その言葉に続いて、『私は誰?』が出てこないことから察するに、オデッセウスは自分が何者であるかも ちゃんと承知しているらしい。
メドゥーサの髪のごとく、うねうねと重力を無視して舞う長い髪。
エリザベス・テイラー扮するところのクレオパトラを思い起こさせる真っ青なアイシャドー。
身にまとっているのは、蛇遣い座の黄金聖衣ではなく、ごく質素な 灰色の麻の貫頭衣。
だが、余人と見紛うことはない。
彼は、間違いなく、前聖戦の時代――243年前の蛇遣座の黄金聖闘士オデッセウスだった。

「この時代のアテナの私邸だ」
極めて不親切な氷河の説明に、オデッセウスはクレームをつけてこなかった。
オデッセウス自身は、もっと丁寧で親切な説明を欲していただろうが、彼が それを要求する前に、氷河が彼の仲間たちに取り囲まれてしまっていたのだ。
「いったい、これは何事だ!」
と、最初に氷河を問い詰めてきたのは紫龍だった。
つまり、いつもなら先陣を切って騒ぎ始める星矢は、静かだった。
紫龍と一緒に その場に駆けつけた星矢は、初めて見る化粧の濃い蛇遣座の黄金聖闘士(の、主に顔)に、ただただ呆れていたのだ。
「クロノスに、オデッセウスを現代に運んでもらったんだ」
星矢たちに数秒遅れて その場にやってきた瞬は、オデッセウスではなく、全く悪びれる様子もなく そう答えてくれた氷河に あっけにとられていた。

『いったい 何のために?』と尋ねるのが恐くて 口を開けずにいる瞬の代わりに、オデッセウスが、
「なぜ私は こんなところにいるのだ?」
氷河に その質問を発してくれた。
そんなことも わからないのかと言いたげな口調で(そんなことが わかるわけがない)、氷河から、
「俺のオペをするためだ。大好きだろう、オペ」
という返答。
「嫌いではないが……病気なのか、君は? キグナス……だったか」
「失礼な。俺は、少なくとも あのゲシュタルトよりは心身共に 健全だし健康だ」
「では なぜ。健全で健康な君が、私にどんなオペをしてほしいというのだ」

オデッセウスの疑念は至極尤も。
それは瞬も――その場にいる氷河以外の全員が――知りたいことだった(できれば知りたくないという気持ちも ないではなかったが)。
氷河は隠すつもりはなかったのだろう。
彼は、実に堂々と、彼がオデッセウスにしてもらいたいオペの内容を公言した。
それは実にとんでもないものだった。
氷河は、オデッセウスに、
「俺は、俺のクールでない部分を 俺の身体から取り除いてほしいんだ」
と、真面目な口調で言ってのけてくれたのだ。

「なに?」
「え?」
「おい、氷河」
「おまえ、気は確かか」
反応は、順に、オデッセウス、瞬、紫龍、星矢。
もちろん、全員が氷河の正気を疑っていた。

人が正気でない時、その人間は狂気に囚われているものだろう。
そして、人が狂気に囚われている時、その人間は、100人中100人までが 自分の正気を疑っていないもの。
今の氷河も そうだった。

「オデッセウス。あんたは――いや、あなたは、双子座ジェミニのカインの中にあった悪の心アベルを、オペで取り除いてみせたと聞いた。人間の心の一部を取り除くことをしてのけたと。俺は、アテナと聖域の敵に相対した時、どうしてもクールに徹することができず、苦戦を余儀なくされることがしばしばある。そんな俺の“クールでない部分”を取り除いてほしいんだ。それが成れば、アテナのため、聖域のため、地上の平和のために、俺は これまでより一層クールに戦うことができるようになるだろう」
「む……」
『アテナのため』と言われると、アテナの聖闘士の一人として、オデッセウスは氷河の無茶な依頼を 狂人の たわ言として一蹴できなくなる。
とはいえ、彼は、だからといって、すぐさま 氷河の非クール部分除去手術に取りかかるわけにもいかなかった。

「アテナのために クールになれない自身の弱点を取り除きたいと願う。それは、実に見上げた心掛けだ。しかし、心の弱点というものは、本来、自分の努力と鍛錬で克服すべきもの。私がオペで取り除いてよいものではないのだ」
「そこを何とか。アテナのため、聖域のため、地上世界の平和のために」

妙に力んで、『アテナのため、聖域のため、地上世界の平和のため』と訴える氷河の態度に、星矢と紫龍は どこか胡散臭いものを感じていた。
氷河が“クールな聖闘士”を目指していることは、彼等とて知っている。
だが、それは、“そういう聖闘士になるように、師に言われたから”である。
あるいは、“その方が恰好よさげだから”、“クールになれない聖闘士と、人に馬鹿にされるのが嫌だから”程度の理由による。
氷河自身が、彼の考えで、その必要性を強く感じているからではない。
まして、アテナのためなどではない。決してない。
――と、星矢たちは認識していた。

いったい氷河は、何を考えて、急に そんなことを言い出したのか。
星矢と紫龍は、その理由を確認する必要があるだろうと考えた。
そして、その確認は、オデッセウスのいないところで行なうのが無難だろう。
そのために、星矢と紫龍は、オデッセウスに席を外してもらうことにしたのである。

「瞬。こんなところで立ち話も何だ。オデッセウスに お茶を振る舞ってやれ。遠い昔から、遠路はるばる こんなところまで来てくれたんだ。どうせなら、18世紀のギリシャでは食べられないような お茶請けを――」
「そうそう。うまい棒の牛タン塩味とか納豆味とか、この時季なら、肉まん、ピザまん、カレーまん」
「天馬が なぜここに」
確かに 18世紀のギリシャでは食べられないだろうが、遠い昔から、遠路はるばる こんなところまで来てくれた客をもてなすには お手軽すぎるお茶請け候補を羅列する星矢を見て、オデッセウスが驚き、目を見張る。
詳細を説明しても しなくても、ややこしいことになりそうだと思いながら、瞬は少しく慌てたのである。

「確か、頂き物の栗蒸し羊羹があったよ」
「頼む。俺と星矢は、氷河に事情を確認してから行く」
「うん。じゃあ、客間にいるね。オデッセウスさん、こちらにどうぞ」
星矢と天馬は“他人の空似”で済ませておくのが吉。
そのためには、オデッセウスの前から星矢の姿を消し去った方がいい。
紫龍の意図を酌んで、瞬は オデッセウスを城戸邸内に案内し、常緑樹以外の木のほとんどが葉を落とした城戸邸の庭には、星矢と紫龍、そして氷河の三人が残されたのだった。






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