「これは――栗蒸し羊羹……というのか。実に美味い。この緑色の茶とも合う」
「これは抹茶というんです。欧州では、お茶の葉を発酵させて紅茶にしますけど、抹茶は お茶の葉を加熱して 発酵しないように処理したものなんです。その葉を粉末にして お湯でといたものがこのお茶です。お湯で濾したり 煮出すより、お茶の葉の栄養分を すべて摂取できて、身体にもいいんですよ」
「なるほど。自然に存在するものを、存在するがままに体内に取り込む――というわけだな。素晴らしい。それに とにかく、この栗蒸し羊羹が美味だ」

城戸邸の客間では、瞬が、遠来の客の おもてなしに これ努めていた。
オデッセウスは、瞬に供された お茶とお茶請けが 大いに気に入ったらしく、真っ青なアイシャドーを塗りたくった顔に 満面の笑みを浮かべている。
「まるでラフレシアと白百合が並んで咲いているようだ」
瞬とオデッセウスが並んでいる姿を眺め、誰にも聞こえぬように 一人ごちてから(星矢と紫龍には しっかり聞こえた)、氷河は、肉色のラフレシアへの嫌悪の表情を消し去って、遠来の客に 彼のオペの話を始めた。

「俺のオペをしてくれたら、この栗蒸し羊羹を10棹ほど、謝礼として提供するぞ」
「この栗蒸し羊羹を?」
その謝礼に、オデッセウスの心は揺れたらしい。
もとい、すぐに決まったらしい。
オペの謝礼を栗蒸し羊羹で済ませようとする氷河も大概だが、
「おやすい御用だ。君のクールでない部分を取り除けばよいのだな」
栗蒸し羊羹の謝礼で、5秒と迷わずオペの依頼を快諾するオデッセウスも、氷河並みに いい加減である。

「そんな……! 氷河のクールでない部分を取り除くなんて、そんなことをしたら、氷河の いいところが みんな消えてしまいます!」
「なに、苦痛は感じぬ。ただ、キグナスの身体の中のクールでない部分を取り除くだけだ」
「早まるな、オデッセウス! 氷河がクールになろうとしているのは、アテナのためでも、世界の平和のためでもない!」
「硬膜切開」
「氷河の口車に乗せられて、そんなオペをしちまったら、とんでもないことになるに決まってるぞ!」
「視床下部カスパーゼ活性化」
へたに迅速をモットーとする黄金聖闘士。
「左右内頸動脈吻合」
瞬たちがオデッセウスにオペを思いとどまらせようとした時にはもう、オデッセウスのオペは完了していた。
「オペ完了」
黄金聖闘士は、いつの時代も、行動のあとから理性や思考がついてくるのだ。

「あああああ……」
オデッセウスは、自らの完璧なオペ 及び その謝礼として手に入る栗蒸し羊羹に 至極満足しているようだったが、クールでない部分を取り除かれた(らしい)白鳥座の聖闘士の前で、彼の仲間たちの頬は蒼白になってしまったのである。
オデッセウスのオペによって“クールでない部分”を取り除かれてしまった(らしい)氷河は、彼等が見知っている氷河の顔をしていなかったのだ。

「キグナス、気分はどうだ?」
「フ……」
“気分”を尋ねるオデッセウスを、氷河は一顧だにしなかった。
客間のテーブルの脇に立っていた瞬の腕を掴んで、氷河が 瞬の身体を なぜか壁際に移動させる。
氷河が 何をしようとしているのかが わからない瞬は、氷河に為されるがまま、壁際に追い詰められていった。

そうして、オデッセウスのオペで クールでない部分を取り除かれてしまった(らしい)氷河がしたことは。
いわゆる壁ドンだったのである。
左の手は壁。
唇の端を妙に引き上げた笑み。
半眼の下目使い。その上 なぜか 斜め方向からの眼差し。
不思議なものを見るような目で、そんな氷河の顔を見上げた瞬に、氷河は、
「いつ見ても、おまえは可愛い」
と言った。
瞬の返事も反応も待たずに、
「瞬。俺のものになれ」
と続ける。

「氷河……どうかしたの?」
と、瞬が氷河に尋ねたのは至極当然。
今 瞬の目の前にいる(クールであるらしい)男は、瞬には(おそらく、瞬以外の人間にとっても)非常に理解の難しい、実に奇妙なことをしていたのだ。
瞬の疑念に答えたのは、(クールになったらしい)氷河当人ではなく、氷河の壁ドンを目の前で見る羽目になってしまった(気の毒な)星矢だった。
「瞬。おまえは気が付いてなかったのかもしれないけど、氷河は前からどうかしてたんだよ」
これがクールな出来事だというのなら、この地上にクールでないものは ただの一つも存在しない。

クールな氷河のクールな壁ドンを見ていられなかった紫龍は、クールな氷河から目を背け、彼の傍らにいたオデッセウスの上に視線を据えていた。
どれほど けばけばしい厚化粧の男でも、クールなつもりで壁ドンをしている氷河を見ていることに比べれば、オデッセウスを見ていることの方が はるかに精神への負担は少ない。
「オデッセウス。クールでない部分を取り除いても、氷河の中には、瞬を好きな気持ちが残っているのか?」
「無論。好悪の感情と、ある人間がクールかクールでないかということは、まったく別の問題だからな」
紫龍の質問に、オデッセウスが首肯する。
オデッセウスの答えを聞いた紫龍は、その眉根を寄せることになった。

「それは おかしい。氷河がクールな男になったというのなら、今の氷河の中に 瞬を好きな気持ちが残っているのは、極めて おかしなことだ。オデッセウス、あなたは 本当に氷河から クールでない部分を取り除くオペをしたのか? もしかしたら あなたは、栗蒸し羊羹欲しさに、オペをした振りをしたのではないか?」
「なに? それはどういう意味だ?」
オデッセウスの眉が片方だけ吊り上がる。
その眉は もちろん、紫龍の自前の眉とは異なり、アイブロウペンシルで丁寧に描き込まれた紛い物の眉である。

「どういう意味も こういう意味も、言葉通りだ。俺は、あなたが 氷河からクールでない部分を取り除くオペをした振りをしただけなのではないかと疑っている」
「光速の拳を見切ることもできない青銅聖闘士風情が何を言うか」
オデッセウスは、紫龍を鼻で笑ってみせたが、彼の認識は大いに間違っている。
紫龍は 確かに青銅聖衣をまとう青銅聖闘士であるが、彼は 並の青銅聖闘士とは訳が違う。
へたな黄金聖闘士の何十倍もの実戦を経験し、黄金聖闘士に打ち勝つこともしてきた超黄金級青銅聖闘士。
光速拳を見切ることも、無論できる。
が、紫龍は、その点に関しては、わざわざ オデッセウスの認識を正すようなことはしなかった。
「かもしれない。だが、そんなことは、音速拳を見切ることのできない子供にもわかることだ」
「ほう?」
濃茶色のペンシルで描かれたオデッセウスの眉が、先を続けるよう紫龍を促してくる。
オデッセウスの化粧に、紫龍の目は慣れてきていた。

「氷河は、その生い立ちや 母親を失った経緯が なかなかに壮絶で、実は 結構クールな男なんだ。好きな相手には異様なまでに のめり込むが、そうでない相手に対しては かなり冷淡。氷河が、自分をクールな男だと思っていないのは、氷河には いつも誰かしら 好きな人がいて、四六時中 その人のことを考えているからだ。氷河は、好きな人がいなければ、恐ろしくクール――いや、冷徹な男ですらある。つまり、氷河をクールな男にしようと思ったら、その人間は、氷河から人を愛する気持ちを取り除かなければならないんだ。氷河がクールでないのは、氷河が愛に生きる男であるがゆえ、なのだからな」

紫龍の告発を脇で聞いていた星矢が、検察官と被告人の脇で 得心したように大きく頷く。
「確かに。氷河がクールになり切れずに醜態をさらすのって、マーマとかカミュとかアイザックとか瞬とか、身内が絡んでる時だけだもんな。それ以外のバトルは、いつも記憶に残らないくらい簡単に片付けてる。氷河は ああ見えても、水瓶座の黄金聖闘士カミュですら到達できてなかった絶対零度に達してる男。なんで、ここまで 強くないイメージが定着したのかが不思議なくらいの実力者だ」

「うむ。その通りだ。つまり、もし オデッセウスが本当に氷河から クールでない部分を取り除くオペをしたのなら、クールになった氷河は 瞬を好きでなくなっているはずなんだ。氷河が本当にクールになるのは、奴の中から愛が消えた時だけなんだから」
「なのに、氷河は瞬を好きなまま。その上、壁ドンなんて恥ずかしい真似まで してのけた」
「どう考えても、オデッセウスは、氷河からクールでない部分を取り除くオペをしていない。無論、彼がオペに失敗したということも考えられるが、その可能性について考えるのは、死者をさえ蘇らせてのけたアスクレピオスの化身ともいうべきオデッセウスに対して失礼な勘繰りというものだろう。となれば、オデッセウスは栗蒸し羊羹欲しさにオペをした振りをした――というパターンしか考えられない。オデッセウス、俺の推理は間違っているか」

紫龍がオデッセウスに問うと、医神アスクレピオスの化身は、無言で紫龍を睨みつけてきた。
そのまま二人は 真正面から睨み合いを続け――先に目を逸らしたのは、あろうことか、前聖戦時代の黄金聖闘士の中でおそらく最強の――ありとあらゆる意味で最強の――蛇遣座オピュクスの黄金聖闘士、オデッセウスの方だったのである。
オデッセウスは、正面から 紫龍の顔を見るのをやめると、肩と眉から力を抜き、少々 長目に吐息した。






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