ナターシャのパパは、ナターシャのマーマの欲しいものを知っている。 ナターシャのマーマは、ナターシャのパパの欲しいものを知っている。 それは つまり、ナターシャのパパがナターシャのマーマを大好きで、ナターシャのマーマがナターシャのパパを大好きだから。 ナターシャも、もちろん パパとマーマが大好きである。 ナターシャのパパとマーマは仲良しで、ナターシャのパパとマーマは ナターシャとも仲良し。 ナターシャのおうちは家族円満。絵に描いたように幸福な家族である。 だというのに、ナターシャは いったい 何が心配なのか。 何がナターシャの心を不安にしているのか。 星矢には、皆目 わからなかったのである。 それは、紫龍にも わかっていなかった。 「氷河は、ナターシャと瞬が欲しい。瞬は 平和な世界が欲しい。それで何か 問題あるのか?」 眉根を寄せて 星矢が尋ねると、ナターシャはリビングルームのセンターテーブルを両手でばしんと叩いて、勢いよく その場に立ちあがった。 「大ありダヨ! マーマはパパの欲しいものをパパにプレゼントできるけど、パパは マーマの欲しいものを永遠にマーマにプレゼントできないかもしれないんダヨ!」 「おっ……」 「マーマは、パパとナターシャだけじゃだめなの? パパは、マーマとナターシャがいれば 幸せだって言ってくれてるのに、マーマは パパとナターシャだけじゃ足りないの !? パパは とってもとってもとってもマーマが大好きなのにっ !! 」 「そ……そういう問題か……」 瞳に涙をさえ にじませたナターシャの必死の訴えに、星矢は我知らず 低く呻ってしまったのである。 そんな星矢の隣りで、紫龍は 小さな呻き声一つ生むことができずにいた。 「パパはマーマを大好きなのに……パパが かわいそうダヨ……」 パパが大好きな 未就学児童の切ない呟き。 それは星矢と紫龍には、全く 持ち合わせのない発想だった。 氷河と瞬では、かわいそうなのは瞬。 それが 星矢と紫龍の認識だったのだ。 何につけても 感情優先、後先を考えず、無茶無謀。 無鉄砲で無思慮、軽率で非常識、やること為すこと滅茶苦茶な氷河に 振り回され続け、尻拭いは いつも瞬。 それでも 瞬は決して氷河を見捨てることなく、氷河の世話を焼き続ける。 氷河は、大人になっても 風の向くまま 気の向くままに やりたい放題。 それが許されているのは、氷河に瞬がついているからである。 この世に 氷河ほど恵まれている男はいないと、星矢は思っていた。 紫龍も、そう思っている。 一輝は言うに及ばず、アテナや、付き合いの長い貴鬼、カノン、比較的 最近 付き合いが始まったシュラや吉乃たちも、“恵まれているのは氷河の方”側の人間だろう。 というより、“氷河がかわいそう”という発想は、この広い世界に おそらくナターシャ一人だけのものである。 ナターシャの不安をどうにかしてやりたいと思いはするのだが、ナターシャの発想が特殊すぎて、星矢は、その対処方法を思いつけなかった。 子連れで舞踏会に出掛けていったら、美しく高貴な王子様が、『一緒に この子を育てていきましょう』と、優しく手を差しのべてくれた。 それが、氷河と瞬の 今ある状況である。 こういう状況で、子持ちシンデレラを『かわいそう』と思う人間はいない。 子持ちシンデレラを羨む人間と、その図々しさに呆れる人間が半々といったところだろう。 しかし、ナターシャは、羨む半分にも 呆れる半分にも属していないのだ。 ナターシャは、あまりにも特殊すぎる。 「パパはマーマを大好きなノ。パパは いつも、マーマのことを大好きだって言ってル。ソレデ、マーマとエイエンに一緒にいたいって言うノ。マーマは綺麗で 優しいって、パパは いつも言ってル。デモ、マーマは そんなこと言わないノ。パパのこと好きだって言わないし、パパと一緒にいたいとも言わないし、パパのこと、カッコいいとも言わないノ。マーマはパパを好きじゃないの……? パパが、平和な世界をマーマにプレゼントできないカラ……?」 パパがマーマを思うほどには、パパがマーマに愛されていないのかもしれないことが、ナターシャの心と瞳を不安の色に染めているらしい。 パパが大好きなナターシャには、それが全く納得できないことでもあるようだった。 「いや、それは……それは、わざわざ 言う必要がないと思ってるだけで、瞬も もちろん氷河のことを好きでいるさ。けど、まあ、瞬は仕事が忙しいし、時間も不規則で 気を遣う仕事だから疲れてるし、だから、んなこと、毎日 言ってられないんだよ」 「デモデモ、マーマは、ナターシャには、毎日 可愛いって言ってくれるヨ! 毎日、ナターシャのこと大好きだって言ってくれて、いい子だって褒めてくれるヨ。デモ、パパには言わないノ。パパをカッコいいとも、パパを大好きとも言わないノ」 「……」 『氷河はすごくカッコいい』と、マーマは毎日 パパに言うべきである。 ――というのが、ナターシャの主張にして、希望なのだろうか。 いくら何でも それは無茶だと、星矢は、ナターシャを説得しようとしたのである。 が、星矢が その作業に取りかかろうとした、まさにその時、ナターシャは別件を畳みかけてきた。 「ソレニ…… ナターシャがピンチの時、ナターシャを助けに来てくれるのはパパで、マーマは助けに来てくれないんダヨ。ナターシャのことは パパが助けに来てくれるから いいケド、パパがピンチの時は どうなるノ? パパがピンチの時、マーマはパパを助けに行ってくれル? もし マーマがパパを助けにいってくれなかったら、ナターシャ、悲しくて泣いちゃうヨ!」 「は……」 そんなことまで想定し 心配する未就学児童に、半ば呆れ、半ば感心する。 それほどに、ナターシャはパパが大好きなのだろう。 何を贈れば 自分の好きな人を喜ばせることができるのかを真剣に考えるナターシャは、大好きな人が不幸な人になる事態を回避するために、喜ばしくない贈り物についても 真剣に周到に考えるのだ。 ナターシャの周到さに降参して、星矢は 手にしていたバトンを紫龍に手渡した。 勝利を確信しているとは言えない様子で、紫龍がバトンを受け取る。 「ナターシャが誤解しないよう、まず言っておくが、瞬がナターシャを助けに行かないのは、瞬がナターシャを助けに行きたくないと思っているからではないぞ。そうではなく、瞬が氷河を信じているからだ。氷河は 必ずナターシャを助け出すと、瞬は氷河を信じているんだ。その上、瞬は、氷河がナターシャの前で“カッコいいパパ”をやりたがっていることを 知っている。だから、瞬は、本当は自分がナターシャを助けに行きたいのを我慢しているんだ。氷河のために」 「パパのために……?」 「当然だ。瞬がナターシャを助けに行くのを我慢する理由は、他にはない」 「ン……ウン……」 紫龍の その言葉で、ナターシャの心は 少し浮上したようだった。 マーマがナターシャを助けに来ない理由が“パパのため”だというのなら、それはナターシャにとっては“嬉しいこと”なのだ。 「氷河のピンチに 瞬が氷河を助けに行くかどうかということについては――これは なかなか難しい問題なんだが、まあ、“基本的には行かないが、最後の最後には行く”と思っていていいだろう」 「キホンテキには助けに行かないノ?」 「基本的にはな。氷河は いつも、ナターシャの前で“カッコいいパパ”をやりたいと思っている。同じように、瞬の前でも“カッコいい俺”をやりたいと思っている。つまり、氷河は、自分がピンチに陥っているところを 瞬に見られたくないんだ。いつもクールに恰好よく勝っていたい――と考えている」 「ソッカ……。マーマは そのことを知ってるカラ、キホンテキにパパを助けに行かないんダ。助けに行かないのは、パパのためなんダ……」 瞬が氷河やナターシャを助けに行かないことに関しては、ナターシャは その説明で納得してくれたようだった。 いきり立ってテーブルに叩きつけていた手と腕を、ナターシャは今はテーブルの上に横たわらせ、ナターシャ自身も絨毯の上に 座り込んでいる。 「瞬は、ピンチの人が100人いたら、他の人たちを全員助けてから、最後に氷河や俺たちを助ける。それは、瞬が 氷河や俺たちを嫌いだからじゃない。むしろ、その逆なんだ。氷河を好きで、氷河を強いと信じているから、瞬は 氷河を後回しにする。瞬は“好きだから”という理由で、好きな人を優先することができないんだ」 「ユーセンって?」 「ん? ああ、“優先する”というのは――そうだな、“贔屓する”ということだ。特別に甘やかすこと。自分の好きな人を贔屓するということは、瞬にとっては 自分を贔屓するのと同じことで、瞬は そういうことができない性格なんだ。瞬は、いつも、まず自分以外の人たちを助けたい。氷河が好きだから、瞬は氷河を優先することができない。氷河も、それは わかっている。自分は最後でいいと、氷河はわかっているんだ。瞬に先に助けられるのは、瞬に弱いと思われていることでもあるからな」 「パパは強くて、カッコいいヨ!」 「ああ、そうだな」 ナターシャの但し書きに、紫龍が頷く。 ナターシャの頭を撫でて、紫龍は微笑んだ。 「氷河は、ナターシャを愛しているから、最初にナターシャを助ける。瞬は、氷河を信じているから、最後に氷河を助ける。そういうことなんだ」 「ウン……」 相手は、未就学児童である。 周到ではあるが、“周到”の意味も知らない未就学の幼児。 “大好き”という気持ちが どんなものなのかは知っていても、“愛”の何たるかを理解してはいない小さな少女(大人でも、“愛”が何であるのかを完全に理解できている者はいないだろうが)。 それでも星矢と紫龍が真面目にナターシャに対峙するのは、幼い子供だった頃、大人たちが思うほどには子供でなかった自分たちのことを憶えているからだった。 その上、ナターシャは、あの瞬が薫育している少女。 幼児と侮って軽く あしらっていると、足を掬われかねない。 この極めて特異な未就学児童は、何を、どこまで、どんなふうに理解したのか――。 考え深げな目と表情をした幼い少女が、ゆっくりと顔を上げたのは、それから約3分後。 ソファに座っている星矢の顔を見上げ、紫龍の顔を見やり、それから ナターシャは、深く顎を引くようにして頷いた。 「マーマは、パパだけじゃなく平和な世界も欲しくて、お仕事も忙しいカラ、毎日 パパに大好きって言ってあげないんダネ。パパを 強くてカッコいいって信じてるカラ、ピンチの時にも助けに行かないんダネ。自分のことをユーセンできない性格だカラ、パパが最後なんダネ」 「へっ」 「なに」 ナターシャの理解力は、未就学児童のレベルを はるかに凌駕している。 心優しい王子様に 救いの手を差しのべられた子持ちのシンデレラへの ナターシャの心は、 「パパがかわいそうダヨ……」 のままだった。 |