どんな願いも叶う星。 ナターシャと同じくらいの年頃の男の子が二人、偶然 手に入れた切符を持って、銀河を駆ける蒸気機関車に乗り込む。 二人が向かったのは、銀河の果てにあるという、“どんな願いも叶う星”だった。 宇宙を走る機関車は、“どんな願いも叶う星”に向かう途中、幾つもの星の駅に停まる。 主人公の二人の少年は、それらの星に住む不思議な人々や 機関車に乗ってくる旅人たちとの出会いと別れを繰り返しながら、星空の旅を続けるのだ。 それは、ナターシャが、春夏秋冬の季節が移るたび、1シーズンに1回通っているプラネタリウムの冬のスペシャルプログラムだった。 宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を原案とした宇宙旅行の物語である。 人間の生と死、本当の幸せとは何か――そういったことを主題としている本家『銀河鉄道』は ナターシャには少し早いだろう。 そう考えて、瞬は、ナターシャに『銀河鉄道の夜』の絵本を読んでやったこともなかったのだが、幼い子供向けにアレンジされた銀河鉄道の物語は、ナターシャの心の琴線に触れたらしい。 プラネタリウムを出てから入ったカフェでケーキを食べている間も、家に帰ってからもずっと、ナターシャは、 「いいナァ。ナターシャも銀河鉄道に乗って行きたいヨ。どんな願いも叶う星ダヨ」 を繰り返していた。 「どんな願いも叶う星に行って、ナターシャちゃんは どんな願いを叶えるの? ナターシャちゃんが叶えたいのは、どんな願いなの?」 「エ」 瞬に尋ねられると、ナターシャは一瞬、びっくりしたように 身体を緊くし、それから 瞳を大きく見開いた。 銀河の果てにあるという、どんな願いも叶う星。 その星に向かって 銀河を走る電車の姿を、脳裏に うっとりと思い描いているようだったのに、ナターシャは 肝心の“叶えたい願い”を考えていなかったのだろうか。 しっかり者のナターシャらしからぬ うっかり。 つい 口許をほころばせた瞬の前で、ナターシャは真面目な顔で考え始めた。 約1分後、ナターシャの“叶えたい願い”は決まったらしい。 「ナターシャは マカロンで できたカマクラの中で、雪見大福を食べてみたいヨ。ナターシャは、銀河鉄道に乗って、どんな願いも叶う星に行くことにしたヨ!」 もともと ナターシャは、お星さまが大好きで、宇宙にオデカケするのが夢だった。 それも、宇宙飛行士になって 宇宙服を着てロケットで飛ぶのではなく、おめかしをして 電車や自動車で行きたいらしい。 かぐや姫のように十二単を着て 飛車で行くのも悪くはないが、シンデレラ姫のドレス着用でカボチャの馬車なら、もっといい。 オデカケ好きのナターシャの好みは、なかなか難しかった。 「いつか ナターシャちゃんのところに 銀河鉄道が来てくれるといいね」 「ナターシャは、お星様にお願いするヨ!」 ナターシャにとって、夢や願いは、叶えるために存在するもの。 ナターシャは 頬を紅潮させて、ベランダに続く扉を開け、冷たい外気の中に飛び出した。 「ナターシャちゃん、ベランダに出るなら、カーディガンを着て――」 ナターシャのカーディガンを持ち ナターシャを追ってベランダに出た瞬は、そこに広がる光景に唖然としてしまったのである。 ベランダの向こうにある空が、見慣れた都会の夜空とは まるで様子が違っていたから。 12月中旬、午後7時。 白鳥座のデネブは空の端、中天にあるのは カシオペア座、アンドロメダ座。 あと1、2時間後には、双子座やオリオン座が、夜の空の舞台の中央に立つだろう。 ――ということは、知識として知っている。 だが、現実には、深夜でも明るい東京の空には、肉眼では 数えるほどしか星の姿は認められない。 瞬が見知っている東京の夜空は、そういうものだった。 それが、まだ宵の口だというのに、人工の光のない、空気の澄んだ場所で見るような星空――降るような星空。 ミルキーウェイが 本当に乳の川に見えるほど――空が 多くの星々で 白く霞んでいる。 これほどの星空は、瞬は、アンドロメダ島で見たのが最後だった。 「な……なに、これ」 「瞬、どうした」 カーディガンを持ったまま、ナターシャに着せようとしない瞬を訝って、氷河がベランダに出てくる。 「何だ、この空は」 乳の川が 本当に乳の川の様相を呈していることに、氷河もまた驚愕する。 こんな星空を見るのは、氷河も、最後にシベリアで過ごした夜以来なのに違いなかった。 が、瞬と氷河は、異様な数の星たちに驚いている場合ではなかったのである。 21世紀の日本の東京の夜に あるまじき星空――すさまじい数の星々。 星々の きらめく音が多すぎて、音として認識することも不可能なほどの――すさまじい静寂。 そんな星々の間を縫い、冷たい金属のような静寂の中に 汽笛の音を響かせ、白い乳の川に架かる鉄橋を渡って、電車が来た――否、蒸気機関車が来た――来てしまったのだ。 蒸気機関車の黒尽くめの体に 並ぶ窓は、四角いオレンジ色の光の行列。 先頭車両の煙突から吐き出された灰色の煙が、四角いオレンジ色の光の行列を導くように 長く たなびいている。 地表に近付くにつれ、汽車はスピードを落としたのだろう。 黒い蒸気機関車は、重たそうな体を ゆっくり、ゆっくりと、瞬たちのいるベランダの前に横づけた。 「ヤッター! ナターシャ、まだお願いしてなかったのに、もう銀河鉄道が来てくれたヨ! きっと、ナターシャが いつも いい子でいたからダヨ!」 「そんな……」 ナターシャが いつも いい子でいたことを否定するつもりはないが、だからといって、夜空を走る蒸気機関車の登場を ごく自然に受け入れてしまえるほど、瞬は(氷河も)もはや子供ではなかった。 しかし、ナターシャは、夜空を走る蒸気機関車を自然に受け入れてしまえる純真な子供。 夜空を走る汽車の登場を 大喜びするナターシャは、当然のごとく、汽車に乗る気満々だった。 「ナターシャは、銀河鉄道に乗って、どんな願いも叶う星に行くヨ。それで、願いを叶えたら帰ってくるヨ!」 現代の東京に建つマンションのベランダ前に黒い蒸気機関車が停車していることへの驚愕は驚愕として――それは それとして、瞬と氷河は ナターシャの その旅立ち宣言に びっくりしてしまったのである。 現代の東京に建つマンションのベランダ前に黒い蒸気機関車が停車していることへの驚愕と同じほど――へたをすると、それ以上に、ナターシャの旅立ち宣言は 彼女のパパとマーマには衝撃的なものだったのだ。 「ナ……ナターシャちゃん、一人で行く気なの」 「ウン。パパとマーマは アシタ、お仕事があるでショ。銀河の果てまで行って戻ってくるのには、キット たくさん時間がかかるヨ。タブン 今日中に帰ってこれない。3日か4日くらいかかるヨ」 この非現実的な状況の中で、ナターシャは、何という現実的な(?)判断をしてみせるのだろう。 明日の仕事とは! だが、今の氷河には、明日の仕事など、明後日の仕事より どうでもいいことだった。 「カマクラなら、俺が雪で作ってやる! 一人旅など許さんぞ! 一人で汽車に乗るのは、ナターシャには10年早い! 迷子になったら、どうするんだ!」 瞬より先に我にかえった氷河が、ほとんど怒声といっていい大声を響かせる。 氷河は、我にかえっただけで、多分 正気を取り戻してはいない。 今 問題なのは、ナターシャの一人旅が是か非かということではなく、銀河を行く機関車の存在そのものだった。 もっとも、旅に出ようとしているナターシャには、自分の叶えたい望み(=目的)こそが最優先事項で、そのための手段や経過は 二の次三の次の付随事項にすぎないようだったが。 「ナターシャは、雪じゃなくて マカロンでできたカマクラの中で、雪見大福を食べてみたいんダヨ。願いを叶えたら、ナターシャは すぐにパパとマーマのところに帰ってくるヨ。ナターシャは寄り道しないで、まっすぐ帰ってくるヨ」 この場にいる人間の中で、おそらく最も冷静な人間であるところのナターシャが、彼女の旅程をパパとマーマに伝えてくる。 それは既に決定事項の報告になっていた。 瞬が、そんなナターシャを見詰め、見おろし、やがて 溜め息と共に ゆっくり頷く。 「ナターシャちゃんが どうしても 願いの叶う星に行きたいのなら、僕は止めない」 「瞬! 正気で言っているのか! そんな非常識な!」 この地上世界で最も 人の正気と常識を疑う資格を持たない男が、瞬を責める。 氷河の叱責を、瞬は無視した。 「でも、一人で行くのは絶対駄目。ナターシャちゃんを一人で遠くに行かせたら、ナターシャちゃんが帰ってくるまで、僕たちはナターシャちゃんが心配で、お仕事どころじゃなくなるからね。だから、僕と氷河も一緒に行くよ」 「エ……」 真面目で責任感の強いマーマが お仕事を投げ出そうとしていることに、ナターシャは驚いたようだった。 氷河は その逆で、ナターシャのマーマがナターシャのために職責を放棄することは 当然の判断――というスタンス。 瞬が一人でナターシャを旅に出そうとしているのではないことを知り、氷河の怒りは鎮静の方向へと向かい始めた。 「それなら、まあ……。とにかく、ナターシャ一人で遠くに行くことは許さん。絶対に駄目だ。宇宙には悪い宇宙人がいるかもしれん。ナターシャが危ない目に合った時、すぐに助けるために、俺たちはいるんだ」 「……ン。わかった……。パパとマーマも ナターシャと一緒に来てもいいヨ」 パパとマーマと一緒にオデカケができるなら、それこそがベスト。 その方が ナターシャも嬉しくて 安心できるはずである。 だが、ナターシャは、パパとマーマと三人でオデカケできることを、あまり喜んではいないように見える。 「ナターシャちゃん……?」 ナターシャの独立心が旺盛なことは、両親への依存心が強すぎることより、はるかに好ましく喜ばしいことである。 しかし、いつも 誰よりも何よりもパパが大好きなナターシャを知っている瞬の目には、ナターシャの その態度と反応は 奇異なものに映った。 もちろん、今現在 瞬の視界の内にあるものの中で 最も奇異で奇妙で奇怪なものは、常識のみならず物理の法則も無視してくれている黒い蒸気機関車の存在そのものだったのだが。 |