北十字の白鳥の停車場から、小学校中学年くらいの男の子が 一人 乗ってきた。
しわくちゃの木綿のシャツ、膝の擦り切れたコーデュロイのズボン。
飾り気のない質素な服装の少年は、瞬たちのボックス席の 通路を挟んで隣りの席に腰を下ろした。
自分から挨拶はしてこなかったが、ナターシャが『こんばんは』と言うと、同じ返事を返してきた。
ナターシャが、
「ナターシャだよ! ナターシャの名前はナターシャって言うんダヨ!」
と名を名乗ると、彼も、
「僕は ジョバンニ」
と、名を名乗る。
控え目で、到底 陽気とは言い難いが、暗い子供でもないようだった。
そして、彼は、銀河の果てにあるという、“どんな願いも叶う星”に行くつもりだと告げた。
ジョバンニの目的地は、ナターシャのそれと同じ場所なのだ。
彼が叶えたい願いは、ナターシャのそれとは 随分 違っていたが。

「僕には、カムパネルラという名前の友だちがいたんだ。とっても大切な友だちだよ。なのに、去年の夏、川に落ちたクラスメイトを助けて、カムパネルラは死んでしまったんだ。カムパネルラは優しい子だった。でも、カムパネルラが助けたザネリは 意地悪で嫌な奴だった。納得がいかないんだ。逆ならよかったのに……! だから 僕は、どんな願いも叶う星に行って、カムパネルラを生き返らせてもらうんだ」
「……」

ナターシャは人懐こい少女である。
老若男女を問わず、身辺に よほど異様な空気をまとわりつかせている人間でない限り、物怖じせず親しんでいく。
あのデクマスクにさえ、臆することはなかった。
そのナターシャが、いったいジョバンニに何を感じたのか、瞬の膝の上に逃げ帰ってくる。
「ナターシャちゃん……?」
まさか、この大人しそうな男の子が デスマスクより恐いというのだろうか。
「ナターシャちゃん、どうしたの?」
瞬が尋ねても、ナターシャは 瞬の首にぎゅっと しがみついたまま、再び ジョバンニの側に行こうとはしなかった。



アルビレオの観測所を過ぎると、窓の外に 蠍の火が見えてきた。
自分の命を みんなの幸いのために使いたいと願う蠍の身体が燃えている火。いつまでも消えることのない赤い火である。
瞬が 赤く燃える蠍の火の意味を ナターシャに語り終えた時、瞬たちの乗っている車両に、また一人の少年が乗り込んできた。

糊がきいて 皺ひとつない真っ白なシャツと、紺色の半ズボン。
ジョバンニと同じ年頃の、小綺麗な服装の男の子である。
その男の子は、ナターシャたちの存在に気付くと、自分から、
「こんばんは」
と挨拶をし、ナターシャが顔を上げると、ナターシャにだけ もう一度、『こんばんは』を言ってくれた。
彼の優しい眼差しで、ナターシャは元気を取り戻し、
「お兄ちゃん、こんばんは。ナターシャだよ!」
と、お返事をしたのである。

優しい目をした少年が、
「ナターシャちゃん。僕は、カムパネルラというんだ」
「カムパネルラ?」
ナターシャが その名に驚いたのは、それが白鳥の停車場で乗ってきたジョバンニの大切な友だちの名前と同じだったからである。
蠍の火が見える場所で汽車に乗ってきたカムパネルラは、ジョバンニの友だちのカムパネルラなのだろうか。
カムパネルラは、ジョバンニが掛けているボックス席の向かい合った席に座ったのに、ジョバンニは無反応。
では、このカムパネルラと ジョバンニの友だちのカムパネルラは同じ名前の別人なのかと思ったのだが、これは そういう単純な偶然というのでもないようだった。

もともと親しみやすい性質ではなさそうなジョバンニはともかく、ナターシャたちに自分から明るく挨拶してきたカムパネルラが、自分の向かいの席に座っている同年代の男子であるジョバンニには、自己紹介どころか『こんばんは』の一言すら 口にしないのだ。
ジョバンニも、そんなカムパネルラの振舞いに 不快を覚えた気配を見せない。
まるで、カムパネルラの目にはジョバンニの姿が、ジョバンニの目にはカムパネルラの姿が見えていないようだった。

「僕には、ジョバンニという名前の友だちがいたんだ。いつまでも――大人になっても 友だちでいようと約束していた、とても大切な友だちだよ。なのに、僕は川で溺れて、その約束を破ってしまった。僕は、約束を破ったことを許してもらえるように――それが無理なら、ジョバンニが僕のことを忘れてくれるようにしてもらうため、どんな願いも叶う星に行くんだよ」
「ジョバンニとカムパネルラ……」
手をのばせば届くほど近くにいるのに、二人は、互いの姿が見えていない。
声も聞こえていないようだった。
それどころか、ナターシャがカムパネルラに告げる言葉はジョバンニに聞こえておらず、ナターシャがジョバンニに告げる言葉はカムパネルラに聞こえていないのだ。

「パパ、マーマ。お兄ちゃんたち、お友だちが見えてないみたいダヨ。ドーシテ? ドーシテ見えないノ? 大切なお友だちナノニ」
それがナターシャは不思議でならないらしい。
あるいは、ナターシャは不安なのかもしれなかった。
ナターシャを安心させてやるために、瞬は ナターシャの背中を撫でてやったのである。
氷河も、ナターシャの頭に手をのばしてきた。

「お兄ちゃんたちは、交わらない世界で生きている人たちなのかもしれないね。僕たちは、その二つの世界のどちらの世界にも属していないから、二人の姿が見えるのかな」
「マジワラナイ世界って、ナニー?」
「それは 僕にもよくわからないけど……。たとえば、夢を見ている人の世界と目覚めている人の世界。過去の世界と未来の世界。自分が大切な人の世界と 自分以外の人たちが大切な人の世界。許そうとする人の世界と憎んでいる人の世界。そういう世界で生きている人たちは、同じ場所にいても お互いの姿が見えないんだよ。そういうこともある」
そして、生きている人の世界の住人と死んでしまった人の世界の住人も。

この二人が そうだとは言い切れないが、同じ世界、同じ時の流れの中で生きている人間同士でも、理解し合うことは難しい。
それは大いに あり得ることだった。
たとえ大切な友人同士であっても。

瞬の言ったことが すっかり理解できたわけではないだろう。
だが ナターシャは、
「何だか、とっても寂しいね、マーマ」
と、悲しそうに呟いた。

大切な友だち同士、理解し合うことはできなくても 大好きではあるのだろうに、二人の少年は、汽車がケンタウルの村を通り過ぎても、互いの存在に気付かず黙ったまま。
南十字の駅についても、動かないまま。
ジョバンニとカムパネルラ。
互いに互いの存在に気付かず 動かないままの二人を乗せて、銀河鉄道は天の南極に向けて走り続けていた。






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