瞬たちを乗せた汽車は、南十字の駅に着いた。
南十字の駅は 天上の駅。天の国への入り口。
宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』では、汽車の乗客は、ジョバンニとカムパネルラを除き 全員が この駅で降りてしまう。
ジョバンニが この駅で降りなかったのは、彼が死んでいないから――生きている人間だから。
カムパネルラが この駅で降りなかったのは――他に行きたい場所、行くべき場所があったからなのだろうか。
ともかく、ほとんどの乗客が降りてしまう天上の駅で、一人の客が汽車に乗ってきた。

ジョバンニやカムパネルラたちのような子供ではないが、成人してもいない。
子供ではなく、大人でもない。
姿は14、5歳の少年か少女のそれだが、14、5歳の少年でも少女でもない。
老人のように静かで深く暗く沈んだ瞳を持った 若い人間だった。
黒く見えるほど濃い緑色の瞳と髪。
金色の刺繍の縁取りがある黒く長い服とマントは、汽車で旅をする者の服装としては ひどく不自然で 不便そうでもあるのだが、扱いに慣れているのか、不自然で不便そうな服をまとった彼(彼女)の所作は、ごく自然で、いかにも優雅だった。

「ナターシャちゃん……?」
南十字の駅で乗ってきた その人の姿を一瞥するなり、ナターシャが瞬の腕に しがみついてくる。
瞬がナターシャの上に視線を落とすと、瞬の腕に しがみついたナターシャは、その肩を微かに震わせていた。
「綺麗だけど……すごく綺麗だけど……恐いヨ。ナターシャ、どこかで見たことあるヨ。デモ、知らない人。綺麗だけど、恐いヨ。悲しそうダヨ。寂しそう……寒そうダヨ」
綺麗だが、恐い。
ナターシャは、そんな人に会うのは これが初めてだったろう。
彼女のパパ、その友人や仲間たち――ナターシャの知っている“綺麗な人たち”は皆、温かく優しいのだ。

人懐こいナターシャが、掴まるように瞬の手の指を握りしめたまま、その黒衣の人には近付いていこうとしなかった。
新しい客の顔に見覚えがあったので、瞬の心は少々 複雑だったのだが。
氷河も その事実に気付いているらしく、瞳の青が黒味を濃くしている。
もっとも ナターシャは、その人を“恐い”から“嫌い”というのでもなさそうだった。

南十字で汽車に乗ってきた黒衣のその人が、ジョバンニの姿に気付き、歩みを止める。
その人は、人の心が読めるのだろうか。
大きくも小さくもない、高くも低くもない、温かくも冷たくもない声で、その人は ジョバンニに話しかけた。
「君の友だちは、大切な友のためだけではなく、すべての人々のために生きることと死ぬことのできる少年だった。そんな生き方と死に方もあるのだと、君は、彼のしたことを認め 受け入れなければならない。……君は そうできるはずだよ。カムパネルラは、君の大切な友だちなんでしょう?」
「僕は……」

突然、すべてを知っているように そんなことを話し出した その人に、ジョバンニは反駁しようとして――だが、結局、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
その人の瞳と眼差しが、恐いほど深く美しくて。
「逆ならよかったのに――。そう考えてしまう君の気持ちは わからないでもない。けれど、そんなふうに考えてしまう人間の願いは、この汽車で どこまで行っても、銀河の果ての 更に向こうまで行っても、叶うことはないんだ。君も、それは わかっているはずだ。君は、この南十字の駅で汽車から降りて、元の世界に戻る汽車に乗りなさい」

その人は、ジョバンニの答えを待たずに、カムパネルラにも告げた。
「君の友だちは、きっと君を許してくれるよ。今は、君という大切な友だちを失ったことで、やりきれない悲しみや 理不尽な怒りに囚われているけれど、時間が経てば気付く。君にとって、彼が どれほど大切な友だちだったのか。彼のために死ななかったこと、別の友人のために死んだこと。――けれど、それは友への裏切りではないのだと、人の世には 守れない約束があることも、きっと 彼は わかってくれるよ。だって、彼は 君の大切な友だちなのだから」
「そうでしょうか」
その人に尋ね返しながら、カムパネルラは既に その人の言葉を、その通りだと信じているようだった。
顔を上げたカムパネルラが、自分の向かいの席に、大切な友だちがいることに気付く。

「ジョバンニ」
カムパネルラに名を呼ばれても ジョバンニが無言だったので、ジョバンニには 相変わらず友だちの姿が見えていないのかと、瞬たちは案じたのだが、そうではなかったらしい。
ジョバンニは、懐かしく大好きな友だちとの再会が叶った喜びで、声を失っていただけだったのだ。
ジョバンニにも カムパネルラの姿がちゃんと見えるようになっていた。
カムパネルラの心が、ジョバンニにも わかるようになっていたのだ。

「カムパネルラ」
暫時、二人は互いに見詰め合っていた。
やがて カムパネルラが、彼の大切な友だちの前に 右の手を差しのべる。
「いつかまた、一緒に星を見ようね」
カムパネルラに ジョバンニは頷き、そして、微笑み合う二人の手が重なった時、二人の姿は消えていた。

ついにわかり合えた二人の喜びの名残りなのか、二人の姿が消えた場所に残る空気が 温かく輝いている。
ナターシャは、それで、その人を“恐い”と感じる気持ちが消えてしまったようだった。
「お姉ちゃん、優しいヨ。恐くないヨ。よかったヨ。お姉ちゃんも、“どんな願いも叶う星”に行くノ?」
「僕が探しているのは、新しい希望なんだよ。僕は、僕の大切な仲間を失って、それからずっと 新しい希望を探し続けているんだ……」
ほとんど呟くように言って、その人が寂しそうに笑う。
どこかで見たことのある その人を、どこで見たのかを、ナターシャは思い出した。

「お姉ちゃん、ナターシャのマーマに似てるヨ。ナターシャのマーマの方が あったかい目をしてるけど」
マーマに似ている人が 寂しそうにしているのは悲しいので、ナターシャは その人を励まそうとしたのである。
「ナターシャは、どんな願いも叶う星に行くんダヨ! お姉ちゃんも 一緒に行こうヨ! お姉ちゃんの希望も、きっとそこにあるヨ!」

人が寂しいのは、その人が一人だから。
一人でなくなれば、どんなに寂しい人も寂しくなくなるはずだと信じて、ナターシャは一緒に行こうと誘ったのに、ナターシャに誘われても、その人の瞳は 寂しいままだった。
だが、優しい。
優しく諭すように、その人は ナターシャに語りかけてきた。

「君は 危険を冒してまで、願いが叶う星に行く必要はないように見えるけど」
「そんなことないヨ」
「今のままでも、君のパパとマーマは、君のことを大好きだと思うよ」
「ナターシャは、今よりもっとずっと いっぱい、パパとマーマにナターシャのことを大好きになってもらいたいんダヨ。パパとマーマだって、その方が嬉しいに決まってるヨ!」
「ナターシャちゃん?」
それはどういう意味なのか。
まるで、今は、ナターシャのパパとマーマが ナターシャを それほど好きでいないと言っているような、その言葉。
なぜそんなことを言うのかと、瞬がナターシャに尋ねようとした時だった。

それまで、走っている時も 停まっている時も 揺れ一つなく、ただ窓の外の景色の変化だけで 列車の走行を確認できていた銀河鉄道の車両が、初めて がくんと大きく揺れたのは。
揺れの衝撃で掛けていたシートから落ちそうになって手擦りに掴まったナターシャを、黒衣の客が、温かくも冷たくもない眼差しで見詰める。

「これは宇宙嵐だ。銀河鉄道は やはり、君を乗せたまま この先に進むことはできないようだよ。君が ここより先に進むことを、世界は許す気がない。だから、世界は宇宙嵐を起こして、汽車の走行を止めようとしているんだ」
「エ……」
「そんな……」

ここで ナターシャが先に進むことを許さないくらいなら、銀河鉄道は最初から ナターシャの許に来なければよかったではないかと、乗りたくて この汽車に乗ったわけではなかった瞬は思ったのである。
人は誰も、生まれたくて この世に生まれてくるものではないが、一度 生を受けてしまったら、生き続けることを望むもの。
ここで 引き返せというのは、勝手に命を与えておいて、『君は生まれるべきではなかった』と言い出すようなものではないか――と。
人生というものは、それが誰のものでも、そんな理不尽が まかり通る――ということは知っているが、そんな理不尽が、自分の上にならともかく 我が子の上に 降りかかることは、耐え難く許せない。
そう考えるのが、子供の親というものである。

だが、瞬が声に出して その事実を非難する前に、ナターシャの身体が宙に浮いていた。
上下スライド式の窓が、すべて一斉に開き、その一つから、ナターシャの身体が窓の外に投げ出される。
まるで、正常細胞が癌細胞を排除するように、汽車はナターシャの小さな身体を 彼の体内から外へ排出した。






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