「ナターシャ!」
氷河が汽車の窓を 窓枠ごと砕き、車外に放り出されたナターシャの身体を追い、掴まえ、抱きかかえる。
「パパッ」
「氷河! ナターシャちゃんっ!」
瞬が すぐさまネビュラチェーンを 氷河の腕に絡みつかせ、氷河は 実体のない 瞬の鎖を掴んだ。

南十字の駅の上方には、石炭袋と呼ばれる暗黒星雲が 黒く不吉な口をぽっかりと開けて 横たわっていた。
石炭袋の口は 冥界と現世を繋ぐ道。
死者たちの魂は その道を通って 死者の国に行く。
だが、ナターシャは死者ではない。生きている。
生者であるナターシャは、本来、銀河鉄道に乗るべきではない人間だったのだ。

「その石炭袋は、冥界への道。一度 口が開いてしまったら、誰かが通らないと閉まらない。人の命を呑み込むと、袋の口は閉じるんだ。君たちには、『幻朧魔皇拳のようもの』と言った方がわかりやすいかな?」
黒衣の客が、温かくも冷たくもない声で、聖闘士にしか わからない例えを用いて、石炭袋の口を閉じ ナターシャを救う方法を、瞬に教えてくれる。
誰かが死なないと、この宇宙嵐は治まらないのだ。
ナターシャを死なせるわけにはいかない。
となれば、瞬のすべきことは決まっていた。

チェーンの一方の端を汽車の車体全体に絡みつけ、瞬は、窓を蹴って 汽車の外に飛び出した。
「氷河。ナターシャちゃんを頼むよ。必ず、守って!」
「瞬、待て! それは俺の役目だ! 駄目だ! おまえなしでは、俺が生きてられん!」
だが、ナターシャの身体を抱きかかえている氷河は、石炭袋の中に引き込まれていこうとしている瞬を追うことができない。

「マーマ、マーマ、駄目! マーマ、行かないで!」
ナターシャの悲鳴が、宇宙に木霊する。
音を伝える空気がないのに、声が聞こえる。
空気がないのに、(死にそうではあるが)生きていられる。
夢でなければ おかしいのに、宇宙嵐に翻弄される身体の痛みも、口を開けている冥界への入り口も、すぐそこにある死も、現実のものだと、瞬にはわかっていた。
このままでは自分は死ぬ。
本当に死ぬ。
それが わかるから、ナターシャも叫んだのだろう。
この人は嵐を止める力を持っているのだと感じて、黒衣の人に――冥府の王に。

「マーマを助けて! 死なせないで! ナターシャの願いなんか叶わなくていい。つぎはぎのない綺麗な身体なんて いらない! だから、マーマを助けてっ!」
「ナターシャちゃん……」
それがナターシャの本当の願いだったのか。
マカロンのカマクラは、咄嗟に思いついた 嘘の“願い”。
ナターシャは、死体を繋ぎ合わせた縫い目のない、普通の綺麗な身体が欲しかったのだ。
それは、アテナの聖闘士の力をもってしても叶えてやれない願いだった。

「ナターシャちゃんの願いを 叶えてあげるよ。僕は一緒に行ってあげられないけど……氷河、ナターシャちゃんを必ず、願いが叶う星に連れていってあげて」
「ナターシャ、いらない! ナターシャ、そんなの、いらない! ナターシャは、パパとマーマ以外、なんにも欲しくないヨおーッ!」
響くはずのない声が、宇宙空間に響き渡る。
ナターシャの悲鳴を聞くと、黒衣の人は その目許に 微かな笑みを浮かべた。

「デストール。石炭袋の口を閉じよ」
「あらあ、閉じちゃうのお。面白い玩具が手に入ると思ったのに、残念だわあ」
遠い昔、どこかで聞いたことのある声が――声だけが――瞬の許に届き、届いた時にはもう、石炭袋の口は閉じていた。
吹き荒れていた宇宙嵐も、壊れたはずの汽車の窓も、瞬たちの身体が 汽車の外に放り出されたことも――すべてが なかったことになっていた。
だが、夢が覚めたわけではない。
瞬たちは まだ、銀河鉄道の列車の中にいた。
窓の外には、ケンタウルスの右腕と、静かになった石炭袋の黒い影がある。






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