「試したわけではない」 黒衣の人は静かに言った。 すがるためではなく 離さないために、瞬に強く しがみついているナターシャと、彼女のパパとマーマに。 「人は時に、間違った夢を見てしまうことがある。ナターシャちゃんのそれは、決して見てはいけない夢ではないけれど……。でも、パパとマーマに好きになってもらうためになら、願う必要のない願いだったね」 これまで ずっと、対峙する人との間に距離を置こうとするように、温かくも冷たくもない声と表情でいた黒衣の人が、瞬に しがみついているナターシャを哀れに思ったのか、初めて 優しい声で、諭すようにナターシャに告げた。 黒衣の人の その言葉に、ナターシャは、瞬にしがみついたままで 頷いたのである。 『それは 願う必要のない願いだった』という黒衣の人の言葉に同感したからではなく、自分は 願ってはならない願いを願ってしまったのだと思ったから。 「人が生きるということは、夢を叶えようとすることだ。でも、人は、自分の夢を叶えようとすることで、自分以外の人を傷付けることもある。それでも夢を叶えようとするか、諦めるか。その決断は、人によって異なる。その どちらも、間違っているわけではないんだ。夢というものは、叶えばいいというものでもない」 初めて優しい響きを帯びた黒衣の人の声が、今度は 悲しげなものになる。 その声が本当に悲しそうだったので、顔を背け続けていられなくなり、ナターシャは顔を上げた。 手は、しっかりと瞬の腕を掴んだまま。 「お姉ちゃんは 諦めたノ? 諦めなかったノ? お姉ちゃんは……間違えたノ?」 「わからない。僕は きっと、その答えを探しているんだ」 「お姉ちゃんにも わからないことがあるノ? お姉ちゃんにも見付けられないものがあるノ?」 ジョバンニやカムパネルラには、迷う様子もなく 彼等が進むべき道を示してやっていたのに。 ナターシャにも、いい子の振舞いを教えてくれる時のマーマのように、語りかけてくれていたのに。 ナターシャが不思議そうに問うと、黒衣の人は 縦にとも横にともなく 首を振り、捉えどころのない、ひどく曖昧な微笑を浮かべた。 「でも、君は見付けたみたいだ。ナターシャちゃん。君は パパとマーマとおうちに 帰り」 「ウン。ナターシャは、パパとマーマと一緒に、パパとマーマとナターシャのおうちに帰るヨ」 “どんな願いも叶う星”ではないが、そこが 最も自分が幸福でいられる場所。 ナターシャには もう、自分が降りるべき駅がわかっていた。 こっくりと頷いてから、ナターシャが、黒衣の人の顔を 心配そうに覗き込む。 「お姉ちゃんは? お姉ちゃんは お姉ちゃんの おうちに帰れないノ?」 「いつかは 僕も、僕の終着駅に着くと思う……」 細い吐息を洩らしながら そう言って、黒衣の人は ナターシャの頭を撫でた。 「ごめんね、ナターシャちゃん。君たちが この汽車に乗ることになったのは、ナターシャちゃんが “どんな願いも叶う星”に行くためではなく、僕が君たちに会うためだったのだと思う。銀河鉄道が、僕の心を慰めようとして、そのために 君たちを呼んだんだ、きっと……」 呟くように言って、彼は氷河と瞬を見た。 恐ろしく 大人びてはいるが、それは幼い頃の瞬の顔だった。 面立ちは幼いのに、1000年生きた老人より 苦しみと悲しみを味わったような深く深い瞳。 「この列車に乗って長いけど、まさか こんな幸せそうな僕たちに会うことがあるなんて 思わなかった」 瞬は気付いていた。 おそらく、氷河も気付いていただろう。 同じ顔なのに、全く似ていない二人の瞬。 毎日 瞬の顔を見ているナターシャが すぐには気付かないほど、二人の瞬は似たところがない。 黒衣の瞬は暗く、少しも幸福そうに見えない。 そして、一人きりである。 別の世界の瞬。 いったい彼の身に何が起こったのか、尋ねることが残酷であるような気がして、彼が“瞬”だと気付きながら、瞬と氷河は訊けずにいたのである――否、訊けなかった。 彼の姿が見えているということは、彼の世界と 自分たちの生きている世界は、“交わらない世界”同士ではないということである。 交わる可能性がある世界だということになる。 いつか、黒衣の瞬の世界の事情を知る時が来るのかもしれない。 瞬は、だが、それは今ではないだろうと思ったのである。 今は ナターシャが彼女の迷いを消し去り、心の安寧を取り戻しかけている時。 こんな時に ナターシャの心を再び波立たせるようなことを、仮にも“瞬”である人間が 望むことはないはず。 ――という 瞬の推察は、正鵠を射たものだったろう。 異世界の瞬の姿は、いつのまにか 列車内から消えていた。 |